主語的統合と述語的統合
主語的統合と述語的統合
p196
人間活動のあり方と比較して、人間の共通感覚と社会との関係性を捉えようと試みた。そして視覚的統合を主語的統合、対感覚的統合を述語的統合と言い換えたのである。両者を説明するために、中村がある論文で示した例が面白い。それぞれの統合の性格を三段論法で示しているのだ。
主語をつなげてゆく三段論法は次のようなものだ。大前提=リンゴは果物である。小前提=すべての果物には食べ頃がある。結論=リンゴには食べ頃がある。では述語をつなげればどうなるか。大前提=リンゴは丸い。小前提=乳房は丸い。結論=リンゴは乳房である。
冗談のような作例だが、つまり述語的統合では、リンゴは乳房でも地球でも丸いものになら何にでも結びつきうるのである。
主語的統合は「自己同一的で求心的な統合」である。一方で述語的統合は、中村の定義に従えば「差異化やずれを含み、拡散的で遠心的な動向を媒介にした統合」のことだ。中村がここで述べていることは、述語的統合と呼ばれるものが、差異化や拡散を含んだ上で、新しい感覚を生みだし、人の世界観を広げるパワーを持っているということなのである。
このことは言語の超越性と深い関わりがある。主語的統合がもたらす語と語の繋がりは、理性的であり科学的だ。一方の述語的統合が生みだした「リンゴは乳房である」は、どこか象徴的である。「わけがわからない」と一蹴する人もいるだろう。しかしある人はここからリンゴに性的な意味を見出すだろう。別の日とはアダムとイヴの原罪を想起するだろう。あるいは、実際にリンゴが乳房であるようなおとぎばなしの世界を想起できる人さえいるだろう。自分の見出した意味が面白いものであったなら、他人へ広めることもあるはずだ。卓越した芸術家がそのような世界を見事に描き出したら、私たちはその世界に接して、乳房となったリンゴに共感し、自分を重ね合わせることさえできるだろう。
中村が三段論法の例を挙げた論文は、実はマイケル・ポランニーの<暗黙知>と共通感覚の関連性を考察したものだ。
出典