メンタルモデル
イメージされた表象
分野によって意味が異なる
何かの目標を達成するために心のなかに創り出され、心のなかで操作される外界の現象のモデルであり、とくに何かの問題を解くときに心のなかに構成される情報表現のこと
イメージの一種ではあるが、外界の情報を模した、心のなかで操作できるモデルという点で、特別な種類のイメージだと考えてよい。
たとえば、電気回路を電気がどう流れるかを考えるのに、心のなかで水道の管路の中をみずがどうながれるかを思い浮かべることがよくある。電気回路のなかの抵抗を水の流れを絞るバルブ、コンデンサーを水のタンク、電線を水道管、電池を水源に置き換えた水道の管路を思い浮かべ、心のなかで水を流してみたりする。このような水の流れのモデルをも元の電気回路の問題のメンタルモデルという。
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メンタルモデル
私たちの感覚のなかには、因果関係を証明する根拠は何ひとつない。それは実体と同じで、あることの結果として別のことが連続して起こるとき私たちが想像する「あるもの」にすぎない。因果関係は、私たちが観察する世界に存在するものではない。
「すべての認識が経験から生じることは疑う余地がない」とカントは言う。しかし彼はすぐにここを離れて、認識を形成するすべての成分は感覚的データを受け取った瞬間に感覚器官から生じるというヒュームの立場を否定する。「しかし、すべての認識は経験 とともに 生じるが、すべての認識が経験 から 生じるというわけではない」
目を閉じれば、世界が消滅したことを感覚データが教えてくれる。しかしこの情報はふるい出されて決して意識に達しない。なぜなら世界には連続性があるというア・プリオリな概念を心のなかに持っているからである。私たちが考えている実在は、ア・プリオリな概念からなる不変のヒエラルキーから選び取ったもろもろの要素と、感覚器官が受け取る絶えず変化してやまないデータの連続的統合体なのである。
しかし実体がないとすれば、私たちが受け取る感覚データについてはどう説明できるのか? 首を左に向けて、ハンドルと前輪とガソリン・タンクを見下ろせば、一定の感覚データが飛び込んでくる。また右を向けば、今度はわずかに異なる別の感覚データを受け取る。左右の視界は異なっている。
カントはここで私たちを救ってくれる。オートバイを直接知覚する方法がないからといって、オートバイが存在しないという証明にはならない。私たちの心のなかにはア・プリオリなオートバイがある。それは時間と空間のなかで連続性を持ち、首を左右に動かすことによって姿を変えることができる。だからたえず受け取る感覚データと矛盾することはない。
このア・プリオリなオートバイは、長い年月をかけて、莫大な量の感覚データから選び取って心のなかに築き上げられてきたものである。だからそれは新しい感覚データが入り込んでくるにつれて、絶えず変化し続けている。いま乗っているこのア・プリオリなオートバイが被る変化には、オートバイと道路との関係など、アッと言う間に変わってしまうものもある。大小いくつものカーブを曲がるときには、いつも私はこれを監視し、補正している。
このア・プリオリなオートバイには緩やかな変化もある。ガソリンの消費。タイヤの減り。ボルトやナットの弛み。ブレーキ・シューとドラム間のギャップ。ほかにも永久不変と思えるほど緩やかな変化がある──塗装、ホイール・ベアリング、コントロール・ケーブル──しかしこれらも絶えず変化し続けている。最後に、本当に長い時間量から考えてみれば、フレームですら、道路の衝撃や温度の変化や金属すべてに共通の内部疲労から、わずかながら変化している。
このア・プリオリなオートバイは、実にすばらしい機械だ。いったん止めて、よくよく考えてみれば、そのすばらしさがよく分かる。感覚データによってそれは確認できる。だが感覚データ=オートバイではない。ア・プリオリに私の外に存在すると信じているオートバイは、銀行に預けてあるお金に似ている。もし銀行に行って、私のお金を見せてくれと頼んだら、きっと変な顔で見られるだろう。銀行には、どこか小さな引き出しを開けて見せてくれるような「私のお金」などないのだから。「私のお金」などというものは、コンピューターの記憶装置の磁気テープに収まっているだけにすぎない。だがそれでも私は満足である。なぜなら、そのお金が入り用になれば、すぐにでも支払ってくれると信じているからである。
これと同じように、私の感覚データが「実体」と呼びうるものを決してもたらしてくれなかったとしても、私は十分満足なのである。なぜなら、感覚データ内には実体が果たす事柄を達成する能力があり、それが絶えず私の心のなかにあるア・プリオリなオートバイに合致していくからである。