パタンランゲージの問題と、失敗の原因
生き生きとした都市を生み出すためにアレグザンダーはパタン・ランゲージを生み出しましたがうまくいきませんでした。
具体化したパタンランゲージの欠点
パタン・ランゲージを建築のデザインに使うとどうなるのかを目のあたりにして、残念ながら多くの欠点があることに気づかざるをえませんでした。コンクリートの一枚岩のようにのっぺりした現代建築に比べれば、形の集積物のように見える伝統的建築物に似たスポンティニアスな建築をパタンがつくり出しえたのは救いなのですが、パタンがつくった建物は少々目立つ(ファンキー)ものだったのです。私は、その無秩序な収まりの悪さにじれったさをおぼえました。素晴らしく、美しいパタンを多く身につけてはいても、落ち着いた感じはなく、満足のいくものではありませんでした。そり意味で、おおざっぱに見れば伸びやかな秩序があり、細かく見ていくと落ち着きをもつ伝統的建築とは雲泥の差があったのです。
パターン・ランゲージが抱えている問題は、それが生み出す建物の形(幾何学)の問題と、良い形を生成するパターンとそうでないものを判定するための共有可能かつ客観的な価値基準の問題、つまり形と価値の問題に集約される。
パターン・ランゲージにこれらの問題があるということは、アレグザンダーにとって、彼の今までの努力がすべて否定されたと言ってよいほどの衝撃であったであろう。アレグザンダーは「デザインの究極的な目標は形だ」としていたのであり、そして、そこでデザイナーがすることは、「コンテクストと形との間に適合性をもたらすことであった。もし、パターン・ランゲージがコンテクストと適合する形を生み出すことができず、また、そもそもある形がコンテクストに適合しているかどうか、すなわち、そのコンテクストにおいて良いものかどうかの判定もできない代物だ、ということが明らかになったとしたら、彼は、自分が設定したデザインの枠組みに合致しないものにたどりついていたことになってしまうからである。
アレグザンダーはどこで間違ったのであろうか? デザインという問題の設定の仕方が間違っていたのか? それとも、ニーズを傾向(フォース)としてとらえたことが間違っていたのか? それを数学の証明のようにカスケード状に積み上げたのがいけなかったのか? アレグザンダー自身もこのような問いについて考え、そして下した結論は、ほぼすべて間違っていた、というものであった。形を目標とすることも、形とコンテクストの適合によってデザイン上の価値判断をすることも、ニーズをフォースとしてとらえ、それに基づいて形を見出すことも、カスケード状にルールを積み上げることも。
それでは、最初から間違っていたとアレグザンダーは考えたのだろうか。おそらく、最初から間違っていたと考えたのであろう。それほど、パターン・ランゲージの失敗が彼に与えた衝撃は大きなものであった。もちろん、パターン・ランゲージのすべてを彼は否定しているわけではない。逆に彼は、パターンのいくつかは、今でも有効だと考えている。ここで彼が否定しているのは、その理論のつくり方、その態度そのものであり、それが根本的に間違っていたと考えたのである。
それでは、何が根本的に間違っていたのだろうか。「デザインという問題」を設定したとき、彼は自らを科学者だと考えていたと本書の冒頭のほうで書いた。この科学者的態度そのものが誤りであったとアレグザンダーは考えたのである。しかも、彼が科学的態度を採用したことが誤りだというだけでなく、その科学的態度そのもの、私たちが持つ科学のあり方についての一般的な認識がそもそも間違っているのだというのである。
アレグザンダーが目指しなおしたもの
私たちは普通、形と価値はそもそも別のものだと考えている。形自体は良いも悪いもなく、そこにコンテクストが与えられ、そこにあるニーズ(フォース)に合致していることが確認されて初めてそれが良い形となると考える。
このことは形に限らない。たとえばモーツァルトの交響曲自体は良くも悪くもなく、それを演奏する人や聞く人の状態に依存すると普通考える。ましてや、それが科学的に言って良い音楽だなんて言えるとは思ってもみない。でも、本当にそうだろうか? 形や音の構造とその価値とは科学的に無関係だと、なぜ私たちは考えるのだろうか? それは私たちが機械論的自然観に基づいて世界を見ているからだとアレグザンダーは考えた。
形と価値は二つの別々のものではなく一体であるような世界観を構築して、パターン・ランゲージを失敗へと導いたこの機械論的自然観を打ち破ること、それがアレグザンダーのデザイン理論が最後に行き着いた先、『秩序の本質』において彼が目指したことであった。
失敗の原因
本質的には対象(環境)と、そこに働く力(フォース)から幾何学的関係を導く体系であった。自らを科学者だと考えていたアレグザンダーは機械論的自然観のもとでパターン・ランゲージを作成したため、この体系を科学と同様に客観的に扱える第一次性質を用いて記述しようと努めた。それは、もののある場における客観的な振る舞いに従って形を導き出す機能主義的なルール(パターン)に基づく理論であり、その意味でパターン・ランゲージは「形は機能に従う」という言葉で象徴される機能主義の理論であった。このとき、パターン・ランゲージでは、ニュートン力学と同様に、対象と力が幾何学的関係に対して論理的に先行する。つまり、力(フォース)をあらかじめ求めてから、その力が求める形を導き出す。しかし、われわれが扱っている環境は機械のように第一次性質によってのみ構成されているわけではないから、第一次性質によって定まる力に基づく機能から、アレグザンダーが求める深い質をもったような価値の高い形が生成される保証はない。だから、パターン・ランゲージは価値をその体系の中で扱うことができず、パターン・ランゲージを用いて「得られた幾何学は不十分であり深みに欠け、簡潔さも十分ではなかった」と、アレグザンダー自身認めなければならなくなったのである。