コンフォートゾーン
人が、原因と結果に関して十分な知識を有している領域、また、ある行動に対してどのような結果が予測されるのか十分な知識を有している領域
デザイナーとの会話
クライアントから「納期をもっと短くしてほしい」と言われて腹が立った。もっとデザイナーの仕事に対して理解してほしい。
クライアントに対して「デザインの仕事は時間がかかるものである」と理解してほしいのだね。
一方で、その要望はクライアントの「もっと速く仕事を進めたい」という要望とトレードオフになるね。自分の要望はクライアントに理解してもらうのは大切だけれども、クライアントの要望も自分の要望と同じくらいに大切にしたいね。
自分の欲求に寄り添って甘やかしてくれるクライアントとだけ仕事をしたいのか? 時間に猶予のあるクライアントとだけ仕事がしたいのか? そうではないだろう。
なぜ怒りを感じるのだろう? クライアントの要望は理不尽だろうか? 納期をもっと短くするというのは傲慢なのだろうか? スピードによって彼らのゴールの達成を左右するなら、正当な要望だろう。
なぜ怒りを感じるのだろう? クライアントの要望に答えられない自分の無能さに実は憤りを感じているのではないか? 自分の実力に腹を立てていて、でもやり場がなく、それをクライアントにぶつけているのではないか? 「これは自分の問題であるけれど、自分には解決策を思いつかない」そんなときには誰かのせいにすれば気が紛れる。その矛先が自分の大切なパートナーであるクライアントであったもしても。
さて、「デザインの仕事は時間がかかるものである」という。これはいつからの認識なのだろう。精査することなく、何年も同じ認識のままつづけていたのかもしれない。そうしたら、もしかして自分自身にとって呪いになってしまってはいないだろうか?
仕事の進め方はさまざまなプロセスから構成されている。そのひとつひとつは、いつからつづけているのだろう? 単に惰性でつづけている方法はないだろうか? 効果的ではなく、単に慣れているから手癖でつづけている方法ではないだろうか?
様々な経験やスキルを身に付けてきた。クライアントの問題も解決してきた。では、それを今の自分の経験やスキルと照らし合わせたら、もしかしたら大幅にリファインできるのではないか?
今なら「デザインの仕事は時間がかかるものである」という自分自身に課せた呪いに抵抗できるのではないか。解くことができるのではないか。もしそれができたなら、どれだけ自分に自信を持てるだろうか? どれだけクライアントが喜ぶだろうか?
これから、ひとつひとつ仕事のやり方を、今の自分の能力の集大成を用いてメンテナンスしてみようじゃないか。
次の論文がある。10年の経験を積んだ執刀医の技術は、2-3年目の執刀医の技術を下回るのだ。今の方が高給をもらい、仕事もし易くなっているかもしれない。それは環境を構築したからで、もしかしたら仕事を改善する能力や取り組みは、新人の時よりもはるかに劣ってしまっているのではないか?
コンフォートゾーンの外
この定義に従うと、人をコンフォートゾーンの外に追いやるシナリオは以下のとおりとなる。 (1)ある望ましい結果に達するために、特定の行動を起こすことが促される(あるいは強制される)。(2)促された当人は、関連する原因と結果に関する自らの知識に基づいて、促された行動では、望まれる結果を達成することはできない、あるいは達成する可能性が極めて低いと確信する。
この定義に従えば、私たちが用いているのとは異なる原因と結果の関係を人が信じている場合、その人は当然、抵抗を示すことになる。いったい、どれぐらいの抵抗だろうか。それは、その人がその原因と結果の関係をどのように信じるに至ったのか、その状況にも拠る。
コンフォートゾーンの外への歩み
まず最初に、相手に新しいパラダイムのロジックをよく説明し、相手が持つ膨大な経験をもって、その有効性を検証してもらうことを忘れてはいけない。彼らには多くの経験があり、それは二つの面で役に立つ。まずは、先述のとおり、彼ら自身の経験を用いて、「新しい」原因と結果の関係を検証してもらい、そしてそれを受け入れてもらえること。第二に、私たちの提案を彼らの環境に適応させるため必要な詳細を用意するのに彼らの経験が役立つことだ。
しかし、「経験がない」二つ目の状況の場合は異なる。これは、こちらが提案した行動が、相手が何ら関連した経験を持ち合わせていない未経験の領域に関わる場合だ。そうした状況においては、彼らの原因と結果の関係は、あくまで自らの経験に基づいて推定したものにすぎず、その推定には欠陥が存在していることがしばしばある。極端な場合、まったく何の関係性も持たないことがあるのだ。
大事なのは、経営陣が従来の自分たちの推論に、もしかしたら間違いがあるのではないかとその有効性を疑いはじめ、私たちが提示した原因と結果の関係の方が正しいのではないかと考えはじめることだ。