『未来を信じ一歩ずつ』
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目次
第1章 父・喜一郎と(幼少のころ 父・喜一郎 ほか)
第2章 トヨタとともに(特殊研究 クラウン ほか)
第3章 未来を信じ一歩ずつ(経団連副会長 経団連会長 ほか)
第4章 モノづくり人づくり(現場力 豊田工業大学 ほか)
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第1章 父・喜一郎と(幼少のころ 父・喜一郎 ほか)
第2章 トヨタとともに(特殊研究 クラウン ほか)
クラウン
1955年(昭和30年)1月、「トヨペットクラウン」とタクシー用「トヨペットマスター」の生産が始まった。
父が目指した本格的な国産乗用車だ。ラインオフ式では、英二さんがクラウンの、斎藤尚一さんがマスターのハンドルを握った。その光景は、感動とともに、今でも私の脳裏に鮮明によみがえる。
当時のトヨタには資金の余裕もなく、失敗すれば経営は再び苦境に陥る。文字通り、背水の陣で開発を進めた。幸い、国産愛用の機運のなか、クラウンはお客様に好評を博し、販売店の努力と相まって順調に販売が伸びていった。
このクラウンの開発責任者が、中村健也主査だ。どこか映画スターのユル・ブリンナーに似た、日本人離れした顔立ちの中村さんは、34年に長岡高等工場学校電気工学科(現新潟大学工学部)を卒業して、クライスラー車の組立をしていた井立自動車製作所に入り、乗用車の設計をしていたが、同社を38年に辞めた後、父が自動車雑誌に書いた文章に共感して、同年9月にトヨタに入社した。
中村さんは、最初に配属された車体工場で溶接機をつくり、その後、住友機械製作所(現住友重機械工業)とともに当時日本最大の鋼板用2000トンプレス機の製造を計画した。計画は戦争で一時中断したが、51年に完成した。このプレス機は、2006年に取引先の武部鉄工所に譲渡され、今もタイの工場でトヨタの現地生産車のフレームを供給するなど、活躍している。
当時の中村さんについて、後に現場の人から聞いたおもしろい話がある。
昔の現場は割合のんびりしていて、正月には会社で餅を食べてから帰宅した。あいつは生意気だからへこませてやろうと思ったのかもしれないが、現場の人が「(用意した餅を)全部食えるか」とふっかけたところ、中村さんは「食える」といって、その餅を全部食べてしまったそうだ。その後、「大丈夫かな、死んでしまわないかな」と心配になって、みんなで帰宅する中村さんの後を家まで付いていったという。
一度できると言ったことは必ずやり通す。いかにも中村さんらしいエピソードだ。英二さんと同い年で、車づくりでお互い一脈通じるところがあったのか、大変仲が良かった。私も中村さんには弟のようにかわいがってもらい、いろいろと死道してもらった。
クラウンの開発で新設した主査制度が今のチーフエンジニア(CE)の始まりだが、その仕組みを考えたのは英二さんだ。英二さんも、エンジンや足回りではだいたい検討がついていたが、乗用車のボディーをつくった経験を持つ人は社内にあまりいなかった。そこで、トヨタに入る前にその知識・経験を十分に得ていた中村さんに白羽の矢を立てた。
主査は車両開発の責任者だが、人を使うという実質の人事権はない。自分の思うように仕事を進めるために、どへでも行く。特に若いエンジニアに対しては自分の考えを示し、彼らを督励した。
クラウンの開発にかけた中村さんの姿勢は、今でも忘れられない。お客様である販売店やタクシー会社を徹底的に回り、米国車ほど大きくなく、応酬の大衆車よりも小さくない、日本人に会った車格とスタイル、観音開きのドアなどの構想を練り上げていった。
一方で、世界自由の乗用車を自ら運転して、乗り心地の良さを追求した「独立懸架」「3枚バネ」「ハイポイド・ギア」といった画期的な新技術や新しい機構を次々と採用していった。クラウンとの大きさを選んだのも中村さんだ。外側の長さと幅が決まってから、室内を広くするためにカーブガラスにもこだわった。「カーブガラスなんかできない」と反対する技術陣も多かったが、それを強引にやってもらった。
1月に発売したクラウン・スタンダードのフロントガラスは、真ん中に継ぎ目のある2枚ガラスだったが、12月に発売したクラウン・デラックスでは1枚ガラスになった。旭硝子にとって納入量の2~3%にすぎなかったと思うが、よく協力してくれたものだ。
中村健也さん
その後、1962年(昭和37年)はにモデルチェンジした2代目クラウンには、より剛性の高い「Xフレーム」を採用した。
このときも、私は、技術部で中村さんと一緒に仕事をした。フレームをできるだけ薄くし、車高を低くすることを目指したが、X型フレームに対しては社内の反対も多く、まさに冒険そのものたった。
テストコースの悪路耐久試験ではフレームに亀裂が生じたが、中村さんは決して諦めなかった。私は、「これが失敗したら2人で一緒に会社を辞めましょう」と言って中村さんを励ました。いつも不退転の決意で臨む中村さんも同じ思いだった。
幸い、発売後は、道路の舗装が進んだこともあり、フレームの亀裂は起きなかった。
中村さんは、新たらしいものに飛び込んでいくチャレンジ精神が旺盛で、意思の固い人だった。「何事も安全第一でやっていては、技術の向上はないし、他社よりも先に行くことはできない」という彼の技術屋魂を私もよく聞かされた。
中村さんは斬新な独創性と可換な実行力で「コロナ」や「センチュリー」といった数々の新型乗用車の開発に挑戦した。そこには、人知れぬ不断の勉強があったのだろう。車を知るために自分でよくドライブし、「日本の道はほとんど走ったが、車を調べるために走っているのだから道しかしらない」と言っていた。
中村さんとはたくさんの仕事を一緒にさせてもらったが、ガスタービンやガスタービンハイブリット車も思い出に残る。当時は、ガスタービンの研究というよりも、ニューエンジンとエネルギー問題という視点で取り組んでいた。
64年からは、東大生産技術研究所の水町先生にご指導いただき、ガスタービンの基礎研究や開発施策をおこなった。その後70年代には、東芝や不二越の協力のもと、ガスタービンハイブリットシステムの開発にも取り組んだ。当時、東芝の会長だった土光敏夫さんのところに2人でモーターの相談にうかがったこともあった。
ガスタービンでアルコールを燃やすのと燃料電池でアルコールを燃やすのとどちらがいいかというエネルギー変換の研究も、エネルギー問題を解決するためにしておられたようだ。
燃料電池も試作した車に乗せればよい。エンジニアにはそれくらいの意気込みと度強が必要だし、トヨタはその程度の金を出したからと言ったつぶれる会社ではないとも言っていた。中村さんは、トヨタ綱領の「研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし」を生涯貫いた技術者だ。
また、合理主義を強く持った人でもあった。雨でも傘をささず、両手を身体の側面にピタリとくっつけて歩く。「手を振ると袖まで濡れるが、手を振らなければ肩しかぬれない」と得意げに私に説明してくれた。
背広をあまり着ず、ネクタイも締めず、カーキ色のナッパ服と、糊が効いてすごくきれいな白いワイシャツをいつも着用する。これが中村流のおしゃれだった。
中村さんの主査としてのやり方が骨格となり、今日のトヨタのCE制度がだんだんと築き上げられ、それがトヨタの特徴となり財産にもなった。
初代クラウンとともに主査中村健也は、いつまでも私の心に残る技術者だ。いかに情熱を持って仕事に取り組むか。そのような精神の持ち方を訓練すれば、私のような若い技術者でも大いに活躍できると思った。
デミング賞
トヨタは戦後早くから統計的品質管理(SQC)を導入したが、総合的品質管理(TQC)導入やデミング賞への挑戦は早いとはいえない。
61年に、グループの日本電装(現デンソー)がデミング賞実地賞を受賞した。それをみた副社長の英二さんの「騙されたと思ってやってみよう」の一言で、その年の6月にTQC導入が決まった。
TQCを導入した理由は、1000ccのエンジンを搭載し、60年4月に発売した2代目「コロナ」の失敗にある。流線型のデザインや、フロントのトーションバー式サスペンション、1枚のリーフスプリングとコイルスプリングを組みあわせた独創的な4リンク式カンチレバータイプなど、最新の機構を備えていたが、設計や製造の技術が今ひとつだった。タクシーなどで酷使されると、耐久性にも懸念が残った。小型乗用車市場が大きく拡大することが予想されるなか、日産「ブルーバード」など競合車の後塵を拝するわけにはいかない。我々には抜本的な対応が求められていた。
TQCを導入したもう一つの理由は、クラウン発表以降の発展とは裏原に、従業員の教育不徹底、管理者の力不足、連携の悪さなど足並みをそろえて克服しなければならない課題が多くあったことだ。東工大の水野滋先生、東大の石川馨先生や浅香鐵一先生をはじめ、TQCの権威に講演や指導をいただきながら、全社で取り組んだ。
62年からは、その推進成果を踏まえ、全役員と水野先生による全社監査を半年ごとに実施した。さらに63年1月には、経営の基本方針、長期方針、年度方針によって全社に徹底を図った。
64年、英二さんを本部長、梅原半二さんと私の両常務を副本部長とするQC推進本部が設置され、中川不器男社長から1年以内にデミング賞実地賞に挑戦せよと言われた。
翌65年5月にデミング賞への挑戦を表明した。石田退三会長はトップ審議の席で、「QCは楽をして儲けるやり方です」との水野先生の説明に、「それなら、ぜひやらせていただきます」と応じた。その年の10月、無事受賞することができた。
この取り組みによって、社内風土は変わった。自分の肯定に責任を持って良いものをつくり、後の工程には不良品を送らない「品質は工程で造り込む」との考えが隅々にまで浸透した。現在では、佐々木眞一元副社長が名付けた「自工程完結」として展開している。
> 田島主査の尽力と、すべての従業員が責任を持つという意識改革によって製品の質は向上し、64年に発売した3代目「コロナ」で大きく花開いた。原価意識も行きわたり、管理手法や人間関係もいっそう良くなり、全社で1つの目標に向かって協力していく体制を実現できた。
石田退三さん
松下幸之助との関わり
「3%や5%、コストを下げようと思っても、なかなかできない。そんななか貿易の自由化を控えて、石田さんから部品の値段を30%落としてほしいと言われた。すべてを白紙に戻して、設計から見直し、やり直してみたら、できてしまった。しかも前より利益があがるようになった。石田さんに礼を言わなならんですわ」
排ガス対応
触媒コンバーターは最初、トヨタの下山工場でつくった。自分たちでつくる技術を持っていれば他から買っても構わないが、持っていなければ自分達だけで対策を立てられない。より良いものにしていくことも他人任せになる。そう考えた英二さんの決断だった。
父は「苦心してそこまで持っていった者には、なお、それを進歩させる力がある。しかし、人のものを受け継ぐと、楽をして知識を得てしまうので、そらに進歩させるという力や迫力に欠ける」と言っていたが、その意思が、このときもしっかりと我々に引き継がれていた。
良き企業市民
80年代半ば、「日本車の強さの秘密は何か」との探究心から、マサチューセッツ工科大学(MIT)のジェームズ・ウォマック教授らが主導して国際自動車プログラムが発足した。
> トヨタの高岡工場と米国メーカーの工場を比較検証し、トヨタのやり方を「リーン生産方式」として高く評価した。合理的なもの、より優れたものは国籍を問わず正当に評価し、謙虚に学ぼうとする米国の度量の広さに感動した。
第3章 未来を信じ一歩ずつ(経団連副会長 経団連会長 ほか)
第4章 モノづくり人づくり(現場力 豊田工業大学 ほか)