ドラッカーの世界観 2012年09月02日
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膨大にして複雑な世界を前にして、西洋はそれを解き明かそうとした。一つの事実を得るならば、論理の力によって因果を辿り、少なくとも、もう一つの事実を明らかにすることができる。
「我思う、ゆえに我あり」といったのがデカルトであり、その『方法序説』(1637年)だった。そこから、「理性、つまり論理によって、すべてがわかる」とする近代合理主義としてのモダンがはじまった。
1957年、すでにドラッカーはこう書いた。「われわれはいつの間にか、モダン(近代合理主義)と呼ばれる時代から、何もない新しい時代へと移行した。昨日までモダンと呼ばれ、最新のものとされてきた世界観、問題意識、拠り所が、いずれも意味をなさなくなった」
「言葉はモダンのもののままであり、現実と行動だけがポストモダンへ移行した」という。つまるところ、「我々が口にしているものは350年来の世界観でありながら、われわれが目にしているものは、手段も道具も言葉もない現実の世界だ」というのだった。
21世紀の重要課題はすべて、あたかも命あるもののごとく、全体を全体として捉える知覚的な能力によってのみ理解が可能となり、解決が可能となる。
存在するものが Aと B だけならば、Aと B の因果関係は重大な意味をもつ。それどころか、両者の存在と両者間の因果関係がすべてである。しかし、そこに C とD とEがあり、それらのものが B に影響を与え、かつ互いに関係し合っているとするならば、そこにあるものは因果関係ではない。一つのもつれ合った形態である。 複雑系
この世に存在するものは、すべてが形態である。静的な因果関係として抽出できるものは例外中の例外、ごくわずかにすぎない。全体を部分の和として捉えることのできる機械的な存在など、ほとんどない。分解してわかるものなど滅多にない。
世の中には、「真理がある」とする考えと、「真理などない」とする考えがある。「真理がある」とする立場に立つと、次に、「その真理は掴める」とするか、「暗い存在の人間には掴めない」とするかに分かれる。「真理が掴めるものならば、それを知らない人たちは遅れているのであり、真理を教え、啓蒙してやらなければならない、あるいは啓蒙してやればよい」ということになる。彼らの #啓蒙主義 とは、このようなものである。 しかし理性万能のリベラルは、そこで止まざるをえない。反対するときは強硬であっても、いざ権力を握ると行動できない。身内の計画屋が描いた青写真を広げて、理解を求めるだけである。
複雑で多元的な世界を理解するには、複眼的かつ多元的な世界観を必要とする。論理もまた、この膨大で複雑な世界を理解するための一つの試みである。モダンの手法も、ポストモダンすなわち現実の問題に対処するための重要な方法の一つである。モダンの方法も、手持ちの道具としては相当に有用である。何しろ350年間使ってきた道具である。限界を知りつつ使うならば、恐ろしく役に立つ。
複雑系においては、論理によって事態をすべて説明することは不可能である。世界はカオス(混沌)であり、たとえ、いかにその構成要素が確たる法則に従って行動しようとも、将来の状況を予測することは不可能である。その様な世界をすべて論理で解明することはできない。わずかな初期値の違いが、その様相を大幅に変える。
音波は知覚されて音となる。コミュニケーションとは知覚である。これがドラッカーのコミュニケーション論の基本である。
「コミュニケーションが知覚である」とするならば、それを成立させる者は、コミュニケーションの発し手ではなく受け手である。受けとってもらわないことには、コミュニケーションにはならない。
相手が見ているものを知ることによって、はじめてコミュニケーションが成立する。同時に、ありがたいことに物事の実体が見えてくる。
ここで認識すべきは、「見解とは事実ではない」という事である。それは一つの側面にすぎない。見解とは、その人に見えるものにすぎない。それぞれの経験や知識によって、その見解は成立する。
同じ事物であっても、人によって見え方は異なる。「見え方が異なる」ということは、人それぞれに「現実」が異なることを意味する。そもそも「現実」とはありのままの事実ではなく、個々人の経験、価値観、嗜好によって意味づけられた「主観の産物」である。
論理で完全に説明できることは危険である。見られることのない現実が見られないままに終わる。論理は無限の現実のわずかを占めるにすぎない。
世界の全体が目に見えないものである以上、われわれは見えないもの、聞こえないものに注意し、そこに意味を見なければならない。「目に見えるものは、目に見えない重要なものを基盤として成立している」と考える必要がある。
ドラッカーは、明確な因果関係を提示しうるものに疑念をもってきた。実際、明確な因果で結ばれるものなど初等数学や初等物理の世界にしかない。
現実は目に見えない大事なものによって支えられている。それらのものを、いま見えるものとの関係のもとに明らかにしていくことが、「未知なるものの体系化」である。
そもそも、ポストモダン自体を論ずることが困難である。しかし、この世界とは、元々がそのようなものと覚悟すべきであると思う。因果の太い線だけをさぐるというモダンの方法が、そもそも無精者のする仕事だった。解析幾何学で普遍学を開拓しようとすることに無理があった。世の中、捨象してよいものはない。大雑把にくくってよしとすることのできるものはない。
ドラッカーは、「そのようなものとしての社会にあって、いかに行動すべきか」を教えた。