アヴァン・ポップ 1124夜2006年3月09日
https://gyazo.com/a5a82ba04cd139d0c8f8f052c8bc59f1 ラリイ・マキャフリイhttps://gyazo.com/4760e5016bd3cc4dc039447124bae3f5 巽孝之 https://gyazo.com/f3a3a8922c7f45f5b645331aa935ffe0
夜の街は社会ダーウィン説の狂った実験に似ている。退屈しきった研究者が計画し、片手の親指で早送りボタンを押しっぱなしにしているようなものだ。―― #ウィリアム・ギブスン アメリカの90年代精神の「際」を抉った一冊だった。父ブッシュの湾岸戦争とウォール街の暴走とインターネットの抬頭のなか、アメリカン・マインドは千々に乱れていた。クリエイターたちは、こう思っていた。ポストモダンでは間にあわない、パンクロックは費いつくした、グローバル・キャピタリズムなんてくそくらえ、いまさらドラッグには戻れない、できればサイボーグな官能に耽りたい。こうしてアヴァンギャルドなポップが目指されたのだった。
ひるがえって思い出すと、70年代半ばくらいのことだと思うけれど、ダウン・アンド・イン(down and in)という言葉がとびかっていた。ちょっと掴みにくいが、「前衛だけれど、でも、周縁じゃない」といった意味だ。
ロナルド・スーキニックにそういうタイトルのアンダーグラウンド文化論があった。ダウン・アンド・インは「アンダーグラウンドはアッパーに出る」といった意味でもあったので、さしずめアンディ・ウォーホルとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの、よこしまに見えながら実はとっても純で高感度な関係のようなことをさしていたにちがいない。
ところが80年代をすごしてみると、そんな蜜月に酔うよりも、ITネットにダウン・アンド・インする方がずっとドラッグレス・ハイになれそうだと感じるようになったのである。けれどもそれって、以前の夢のデジタルな焼き直しとは違うのか。クリエイターたちは少し迷い、そしてアヴァン・ポップに突っ込むことにした。
世の中が上位と下位を分け、主流と前衛を離し、中心と周縁を区別するのは、もううんざりだと感じていた。
セックス・ピストルズの《プリティ・ヴェイカント》を聞けば、おどけたニヒリズムとからっぽさ加減がダダ的不条理で抑圧する言語体系をゆさぶっているのがすぐわかる。だからかれらは自己言及的批判が演奏にあらわれてくる。
マキャフリイが言いたかったことは、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』を読みおわって、もう一度一ページ目をゆっくり開いた瞬間に、全てが分かるようになっている。そのエピグラフにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの《日曜の朝》の「見ろよ、世界はおまえの背後にある」が引用されていた。それはサイバーパンクの開幕であって、同時にアヴァン・ポップの凱歌のマニフェストであった。
マキャフリイに『アヴァン・ポップ』という書名の著作はない。巽孝之がマキャフリイと相談ずくでこのような本を編んだ。
アヴァン・ポップというコンセプトはマキャフリイが1991年あたりに提案したものだった。1986年のジャズのレスター・ボウイの《アヴァン・ポップ》から採ったかどうかは知らないが、ポストモダン以降のデジタルメディア時代のアヴァンギャルドな潮流に対して名付けられたもので、最初のうちはタランティーノやコーエン兄弟の映画の批評で語られていたのだが、それがしだいにポストモダンの次にくる文学理論に応用されていった。
パンクの登場と共に、そのふざけ半分の引用や関連性のないカットアップ手法や皮肉なポーズと共に、従来のサブカルチャーの閉鎖性は完全にくつがえされた。パンクは戦後のサブカルチャーを手当たりしだいにあさり、リサイクル=再生させるべくファッションとサインを盗んだのだ。 ――イアン・チェンバース
20世紀末のアメリカ文学に何がおこっていたかを瞥見しておくと、ひとつには北米マジック・リアリズムのようなものが志向されていた。ひとつにはブルース・スターリングが名付けた「伴流文学」が文脈をもった。そしてひとつにはマキャフリイが命名したアヴァン・ポップの潮流が溢れてきた。
これらはそれぞれが似たような境界侵犯領域をさしている。しばしば「トマス・ピンチョン以降のポストモダン」とも「ニューマキシマリズム」ともよばれていた。マキシマリズムはむろん70年代のミニマリズムに対抗したものだ。ようするに、後期資本主義の前衛芸術と大衆芸術の境界を脱構築する「小説という方法を書く文学」という文芸的なムーブメントのことである。
これをメタフィクションと混ぜて議論してみせたのは巽孝之たちだ。「尽きる文学」だ。いや、メタフィクションと言わなくてもいい。『嫌ならやめとけ』(水声社)のレイモンド・フェダマンは「サーフィクション」(超虚構小説)と、『読みのプロトコル』や『テクストの読み方と教え方』(ともに岩波書店)でいろいろのタネ明かしをしてみせたロバート・スコールズは「ファビュレーション」(寓話化)と、マシュード・ザバーザダーは「トランスフィクション」と、数学者でもある作家のルディ・ラッカーは「トランスリアリズムの文学」と、ジェローム・クリンコウィッツは「ポストコンテンポラリー・フィクション」と名付けていた。
まあ、呼称はいろいろだが、これらはMTVやハイパーテキストやウェブ社会の登場と軌を一にしていた。つまりこれらは、IT時代の情報文学であって、デジタル加担の方法文学で、たぶんにサイバーなエディトリアリティの実験文学なのである。
意味、構造、そして映像ディスプレイの諸要素が本質的に不安定であるという点で、電子テクストは従来のテクストとは一線を画している。 ――J・D・ボルダー
アヴァン・ポップなメタフィクションは中心などもってはいない。むろん周縁にもいない。どこもかしこも脱中心であって、どこからでも自己他者モデルが顔を出す。すべてが仕掛けであって、すべてが入れ子構造なのだ。
それをマイクル・ボイドは、これはどうかと思うのだが、ありきたりにも「自己言及小説」と言って、読むことを消費する“小説批評小説”だと説明した。それならポール・ド・マンが言語の効果は自然を読みちがえることなんだと言ったことが当たっていたわけだし、大塚英志が「物語消費」と言い、東浩紀がデータベース消費とオタク文化の本質を言い当てたのも、当たっていたわけだ。
究極のロゴスなど存在しない。そこにあるのは新たな視点、新たな認識、新たな解釈だ。にもかかわらず、文学はむしろ連続性を保持するためのシステムであり、我々はその文学の電子の端末にいるにすぎない。
ラリイ・マキャフリイは、僕より1歳年下のサンディエゴ州立大学の文学教授。沢山の著書が、あるがまったく邦訳がない。編訳者の巽孝之はぼくより10歳年下の慶應義塾大学の文学教授。
既刊著書に『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房)、『メタフィクションの思想』(ちくま文庫)、『ニュー・アメリカニズム』(青土社)、『アメリカ文学のキーワード』(講談社現代新書)などがある。文中に紹介した山崎シンジ&ユミの写真集『BD』(フールズメイト)は本書の装幀にも流用されている。デイヴッィド・ブレアの『WAX』は最初にMOMAで公開された大問題作。本書にはほかに #ウィリアム・ギブスン 、ブルース・スターリング、キャシー・アッカー、スティーヴ・エリクソン、マキャフリイのパートナーであるシンダ・グレゴリーらのインタヴューが収録されている。