個人的な経験を公にするか否かの判断軸
事前に考慮しておくと、予期せぬ被害を防げるかもしれない観点
アウトプットしようとしている自身の経験の「種類」と「抽象度」
「種類」
事例: 「佐藤家では虐待4種類フルコンプリートしました」
個人的にはhealthy-sato.icon はこの抽象度なら無理なく語れる、ネタにできる
「抽象度」
事例:「性虐発生のトリガーとして例えば、南浦和の実家で20時ごろ帰宅した親がシャワー浴びたあと深酒して…」
個人的に現時点でhealthy-sato.icon はこの抽象度で語るのは持病(C-PTSD)影響で不可能
フラバで発語が支離滅裂になり相手に伝えたいことが伝えられない、メタ認知できなくなる
どれほどその経験が個人のコントロール外(意思や努力でどうにかなる範疇ではない)であっても叩きたい意思がある人は叩く。
取材や広報、自主的な発信など、どんな経緯であれ、自分の経験を公にするという行為は、個人的な経験が第三者(読み手)からの解釈・価値判断にさらされるリスクがある
実際healthy-sato.icon はプライベートで背中から刺されて瀕死になった。
いまも相当引きずってます。きつい。
十中八九死に際で走馬灯として再生されるイベントがここ5年で3回発生しました。
どんな事情であれ、叩きたい意思があるひとは人はどこまでも他人の揚げ足をとって叩こうとします。
プライベートから刺されるのは本当に精神的打撃が強いです。
healthy-sato.iconは原体験とほぼ同じくらいの打撃を受けました。二次受傷というやつですね。どうか同志のみなさんは気をつけてください……
世の中はクソ理不尽
悪意ある第三者からコンテンツとして消費・価値判断されうることを予め想定してほしい
(迷ってる人は個別に問い合わせてください。ここには書けないけど、どれほどのリスクがあるのか個別にお伝えすることはできます)
もし自身の経験を公にするかどうか迷ったときは、できれば最悪のケースを想定しても発信する価値があるかどうかを考慮するプロセスを挟んでほしいです、本当に世の中理不尽なので………
「たとえ叩かれたとしてもこの経験を世の中に共有する価値はある」「赤の他人に自身の経験について叩かれ精神的打撃を受けた場合に自身が立ち直るまでに必要な時間はどのくらいか」などを考慮しつつ、その経験を公にする価値があるかどうか、そして、伝えるときの抽象度はどのくらいに留めるかの2点を考慮した上で判断してほしいです
自身の経験は、自分だけのものです。たとえ誰かに批判されれも、自分の経験に対する解釈を他人の手に委ねないでほしいです。赤の他人が何を言っても、その経験をしたのは自分だけです。価値判断する権利があるのも、自分だけです。他人は経験してないし、被害も被ってない。ただの第三者です。
なので、もし自己開示すると決めて公にして、そのあと赤の他人がジャッジしてきたとしても気にしないでほしいです。その経験は自分だけのものです。誰かに価値判断されたところで、所詮実際に経験してない第三者がコンテンツとして消費したうえで日常生活のストレスのはけ口としてわざわざクレームつけてるだけです。ただ、受けた側も人間なのでショックは受けるのですが……でも自殺するほどのショックを受ける必要はないです。
クレームつけるひとにも赤の他人にわざわざクレームつけるだけの事情があると思います。クソ理不尽な世の中ではそれは仕方のないことなのかもしれないなと思います。
でも、その人にどんな事情があったとしてもクレームつけられたら悲しいですよね。少なくともhealthy-sato.iconは死にかけてしまいました。
でも、もしこの世の中に蔓延してる旧世代の理不尽な考え方に屈せずに意図的に自己開示するのであれば、決して自己を卑下しないでほしいです。自己開示の不利益を考慮したうえで次世代のために身銭を切ってリスクを負って公にしたその勇気に自信をもっていただけたら嬉しいです。