ファンダムと行使の民主主義
ファンダムの面白いところは、まずは一元的に消費するだけの存在ではない点です。つまり、消費者でありながら自分で推しの情報を発信したり、グッズを作ったり、二次創作をしたりといったアクションを通して、生産者としても存在します。これは、ソーシャルメディアのなかでは全員が受信者でもあり発信者ともなるという構造と同じです。とはいえ、推しの対象は明確な商品ですから、勝手に二次制作すると著作権や肖像権の侵害となります。 ところが、ここで面白いのは、ファンと、俗に「公式」と呼ばれる商品の製造元との関係性です。これまで、消費者は一方的に情報や商品を受け取るだけの存在でしたが、双方向型のメディアが登場することで、その関係性が変わりました。ファンダムは、いまや企業にとって最も重要な顧客ですから、 無下 に扱うことができなくなり、ファンは「公式」における監視役としての役割を担う格好にもなっています。この関係性は、先ほどロザンヴァロンが提起した、権力の「応答性」や、市民との間の「双方向性」といった議論にも重なり、彼の語る「市民的監視団体」をファンダムが集合的に担っていると言えなくもありません。 そうだとすれば、消費者としての市民に、新たな市民像の脈があると思います。ただ、この種の議論にはどうも落とし穴があるような気もします。はたして行政サービスは消費の対象なのか。
消費者も市民たりうるということの例として、先ほどデザイン思考、賢い消費者、変革を促す消費者のお話が出てきましたが、若林さんからすると、いい話には聞こえても、何か噓くささも感じてしまう。「ニーズに応える」とか「賢い消費者」といったところで、結局マーケティングに回収されてしまい、消費者が完全な主体性を持つことは難しいのではないか、ということですよね。 これに対して、ファンダムというのは資本主義的な回路に乗りながらも、その原理とはまったく異なる贈与の原理に従って、ファンのコミュニティの内部で主体性の発動があると見ているわけですね。 ただ日本の場合、いわゆるアニメファンがフェミニストたちと対立するといったことも起きています。ファンダムがどちらかというと右寄りの勢力と親和性が高いことをどう考えたらいいのか。ここでもやはり右派のほうがデジタル環境と相性がいいようにも見えます。
ファンダムの運動内部の原理自体が民主主義的だからといって、それが必ずしも政治思想としての「デモクラシー」に結びつくとは限りません。
ファンダムに示されている参加型文化や、相互に贈与し合いながら集合的な知性を育んでいく技術を使わない手はありません。オタクはみんな右派だといって扉を閉めるのでは、あまりにもったいない。
まさに「ファンダム」という薬を、「行使の民主主義」といかに結びつけるかということですね。指導的な知識人が「これは良い」「これは悪い」と決めていくやり方ではない。みんながお互いに援け合いながら学び合っていく空間を、「政治=選挙」の外にどうやって作っていくことができるか。「行使の民主主義」とファンダムが重なり合うところにこそ、これからの民主主義の可能性があるのだと。次章ではさらに、民主主義の新たな実践について、とくにプラグマティズムの視角から考えてみたいと思います。