レビ記
レビ記は時代遅れの儀式の本だとしばしば考えられるが、直接的にイエス・キリストの働きを予見している。
主イエスは、完全な神の小羊として仕え、世の罪を取り除かれた。(ヨハネの福音書1:29参照) 汚れた私たちが、聖なる神にどうやって近づくことができるのか。
どうすれば罪が赦されるのか。
救われた後でも色々罪を犯してしまう弱い民が、どのように聖い神に近づけばいいのか。
神に喜ばれる礼拝、神に受け入れられる礼拝は、どのように捧げればいいのか。 どのように世界の光として輝くことができるのか。
これらの質問に対する答えが、レビ記が現代にも語りかけているメッセージの内容である。
だからレビ記は、祭司たちのための単なるマニュアルではない。
主イエスの身代わりの死によって、主イエスはレビ記全体が語っている犠牲・いけにえとなられた。
主イエスは大祭司として今も仕えておられ、私たち罪ある人間が聖なる神と義なる関係を持つことができるようにとりなしてくださる。
衣服、織物、編物、すべての革製品にできるツァラアトについて。 ツァラアトはらい病ではない!ツァラアトは、皮膚だけでなく、衣服、織物、編物、すべての革製品にできるから。 らい病や重い皮膚病を患っている者に対する差別と偏見をなくすため。 タペストリーを裏から見ているような状態。もつれた糸、絡まった糸。ぐちゃぐちゃ状態。
表から見ても、製作中なので全体像はなかなか見えてこない。
さらに、人生というタペストリーはひどい汚れとしみと汚点で、すべてが台無し状態!
人生というタペストリーの中のツァラアト、罪、ひどい汚れ、汚点、しみ 人生の日々はたいへん高価な織物のよう。
細部しか見えてなくても、意味や存在価値が見えなくても、そこに神の壮大なご計画、御心がある。 そう信じて逃げ出さないこと。
そのために、日々、今ここでしなければならないことがある。