『今を生きるための現代詩』
なんじゃこれ、紹介される詩よりも、渡邊 十絲子さんの地の文になんかすごく心打たれている
→ 好きな言い回し
ちょっと考えてみれば、「むずかしい」は「やさしい」よりも確実におもしろくてたのしいことがわかる。 p.15
一般に人は、実力が足りないときには、対象を否定することしかできない。肯定や受容は、否定の数十倍のエネルギーを必要とするものだと思う。だから小さいこどもは、新しく接する未知のものを否定ばかりしているし。いま自分が、好きではない詩を否定するやりかたではなく、好きになったことばを書けるのは、つまり、おとなになったということである。 p.39
書の作品を前にしたとき、筆を持って紙のうえにその文字を書いた人の肉体の躍動や呼吸が、作品を見ている自分の肉体に実感をもって再現される。「こう書こうというプランの機械的な達成」ではなく、「結果としてこんなかたちを書きつけることになってしまった(失敗かもしれないし意味がないかもしれない)肉体と精神の運動の記録」であるからこそ、書は魅力的なのだ。
(…)
人間が万能であったなら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということではないのだろうか。 p.41
わからなさの価値
谷川俊太郎 - 沈黙の部屋
入沢康夫 - 「木の船」のための素描
CUBEじゃん
ふたつの詩に共通していえることは、「あらすじ」を言うことができないということである。つまり、どのことばもひとしい重みをもって書かれているために、詩のなかでことばを取捨選択することができない。あるいは、全体としてなにかを伝達するための文章ではないので、要約という行為が意味をなさないのである。
そこに書かれていることばが伝達のためのものだったら、わたしたちはそれを要約することができる。しかし、「沈黙の部屋」にしろ、「『木の船のための素描」にしろ、要約は不可能だ。一文字もけずれない。 p.67
読んですぐに過不足なく理解できる表現、つまり伝達性の高い表現は、文化の文脈への依存度が高いので、その場にかぎってはとても役にたつが、時が流れて環境や社会状況や人の好みがちょっと変化してしまえば、じきに役にたたなくなる。 p.71
効率の味気なさ p.71
いま、いそいで「わかった」と言ってこれを処理することの安っぽさと、「わからない」状態にながく身をおいていることの大切さ。「わからない」ことは高貴な可能性なのである。
すべての人には、「まだわからないでいる」権利がある。 p.75
「すぐにわかったつもりになるのをやめて、簡単にわかってしまわないようにする」という態度のたいせつさだ。「わからない」という認識は、日常なじんでいるものを「わかっている」と思うことに比して、より高度の認識である。
「わからない」と「わかった」とのあいだを往復しながら、われわれの内部で詩は育っていくのだ。
→ Negative capability
わたしがこの不幸な道に入りこまずにすんだのは、あまりにも無知で未熟な中学生だったがために、かえってわからないのを当然のこととして受けいれられたからだろう。
「知らない」「わからない」ということには独特の価値がある。p.88
(表記のゆれに関して)だからこの問題は、日本語で書く者にあたえられた特権的な悩みであり、日本の詩人だけがそこでつまづくことを許された落とし穴でもあるのだ。詩が、どの言語で書くかということと密接な関係をもった(翻訳の困難な)文芸である以上、日本語の詩はこの問題こそをまずはじめに悩むべきではないのか。安東次男はそのことをここで示しているのではないか。p.92
言語学が着目するのは、音韻と語法と意味である。p.97
読んでいる日本語の現代詩についての本で「言語学が着目するのは、音韻と語法と意味である」って行があったんだが、ソシュールもそんなこと言ってたよね。言語の本質は話される言葉にあって、文字はその残骸に過ぎない、的な。それがいかにラテン語中心主義的な教義なんだろいうって僕はおもうんだが、どう?
Saussure indeed argued that la langue (language as a structured system) exists primarily in the spoken form, and that writing is a secondary, derivative representation — even calling it a “distortion” of language. This privileging of speech over writing forms the backbone of what Derrida later called phonocentrism — a logocentric bias that places presence (speech) above absence (writing).
It’s a kind of metaphysical assumption that speech is more “natural,” more “authentic,” or closer to thought than writing. That’s very much a historical construction, not a universal truth.
In contrast, many non-Western or logographic writing traditions (like classical Chinese or Japanese kanbun) treated writing as a superior medium, not a degraded one..chatgpt.icon
日本語で書かれた詩を考えるうえで、日本語の特殊性は無視できない。日本語は音声言語としてはきわめて貧弱であり、ということは、視覚言語におおきくよりかかった言語なのである。p.97
むしろ日本人は、日本語の音の少なさをたのしく活用しているようにみえる。
(…)「かけことば」は日本の文芸のいろどりだった。音韻組織が単純であればあるほど、「かける」ことのできることばはふえる理屈である。 p.98
そして、こうした目もあやな超現実的描写の一部始終を、ひとは音読することができないのである。われわれはこの構造を、黙って音読させられるだけだ。p.100
これではすっかり凡庸な詩になりさがる。
ところがこの詩においては、意味は改行のなかにあるのだ。p.111
(または日本語において詩歌がすべて「声」であった幸福な時代の常識 p.127
「音読不能な詩」p.128
人はだれでも孤独であり、また孤独であるべきだ。けれども人はついだれかのこころの中に自分の存在を押しこみたがる。相手にとって自分というものが「意味」をもつと信じたいのだ。p.149
だれにでも通じることばは、深みというものを持たない。「通じる」度合いが高ければ高いほど、そのことばは記号化し、符牒のようなものになっていく。
詩のことばは、そうしたことばの対極にある、孤独のためのことばだ。
これは意図的にそうしたというよりはほぼ無意識に身につけたふるまいなのだろう。そして無意識であるために、かえってそれは彼女らの身体にふかく染みついたのである。p.156
強い外力がくわわったことによって、心身が変形する。
(…)しかし変わることが不愉快だというのは、「外力がくわわらなければ変化しない、もとの自分」というものを想定した考えかたであろう。不動の自分、無傷の自分なんて、そんなものがあるのだろうか。かりにあるとして、それは価値あるものといえるのか。同級生たちが新しく獲得した奇妙な甘い声を聴きながら、わたしはいつしかそう考えはじめていた。p.158
人は変わっていくもので、不変の自分というのはときに有害なフィクションである。p.159
もともと、男の詩と女の詩はどこか違う。p.181
(からの)
おそらく、近代的西洋的な自我というものは、男の発想によるものだろう。p.183
そういうもろもろの「もの」は、たしかにある状況のなかでは役割や意味をもつものだけれど、いついかなる場合にもその役割や意味をにないつづけているわけではない。意味をはなれて、ただたんに存在しているだけのときもある。そういうときには、われわれはそれを純粋に視線の対象物として、世界の手ざわりを知る。p.198
そういう「世界の手ざわり」は、人間のコントロールからこぼれおちているものだ。それはただ、人間をとりまく環境としてそこにある。わたしは「手ざわり」に囲まれて生き、「手ざわり」から世界の正体を想像して日々をすごす。
詩もまた、そういう手ざわりのひとつだ。p.199
彼らは頭のおかしい野心家だったのではなくて、人類でもっとも謙虚な人たちだったのだと思う。p.201