X未満
最近、同業の人と喋る機会がめっきり少なくなってしまった。もともと少なかったけど、以前にも増して。
https://x.com/_unshift/status/1952900167591694586
同業でいうと、ウェブやデジタル系に関して、近しい言語感覚を持っている方がそもそも周りに居なくて困っている デザインファーム系の語り口と、メディアアート/ネットアート系の美学や問題意識を迂回している層との分断というか……
居ないは言い過ぎ
hysyskさん、北千住デザインさん、あるいは坂本 政則さんや田中良治さん、竹久 直樹さん、あるいは中野さんや永松さんとか、(中野さんはかなり特殊な出自だけど)Webのスペキュラティブな側面とフォーマリスティックな側面の両方を深掘れるような方々はいる
UNIBAさんとかも制作会社として(直接の知り合いはあまり居ない気がするけど)近いノリを感じる 素敵だなって思う
けど制作観が不連続に変わる界面みたいなのは肌感としてある
http://normalize.fm 公開収録のときにも感じた
午前・午後の部と、夜の部とで、場のノリがサッと移ろっていく感じというか(p5aholicさんは前者寄りの汽水域にいらっしゃる感覚がある)
Yehwan SongやJODIの話があの場で通じていたのってどのくらいなんだろう
生業がCMS受注だろうとキャンペーンサイトアプリ開発だろうと、ICCやCBCNET的なるものがそれとなくハブとして機能していた時代があったような気がする
HTML Day 2025 Tokyoの取材にいらっしゃるのがWD誌ではなくGraphic Design Review米山さんっていうのも象徴的
WWWを取り巻く思索的な側面(「リアルインターネットおじさん」のようなジョーク含め)をウォッチしているかどうかで、わりとノリが分離しているのが寂しい
単純にそういう「脇道」に意識を向けられるほどヒマじゃなくなったっていうのが一番の要因な気がする
3-40代前後が、語彙がなんでんかんでん化している層の中央値だと思うんだけど、家族を持つとか経営者になるとか、責任ある立場につかれている方が多いんだろうなって思う
ikeryouさんがそのうえであそこまでeverydayされているのは尚のこと尊い
中村 勇吾さんはある意味荷下ろしした立場というか
高校野球を腐すまでもなく、自分自身、反動形成的に入った柔道部で育んだトキシックさを、十数年かけて解毒しようとしている真っ只中だったりもする 身体面ではいいこともあったけれど、虐めも虐められにも加担した
「バズ狙いでしょ」とか、心の中を勝手に決めつけるのは質の低い見下しだとつねづね思ってるんだけど、唯一それができるのは自分自身だけなわけで、そういう点で自分ほど見下し甲斐のある存在はない
昨晩___さん、___さんとお話したことについて色々考え込んでいた。CHIで来日されていたJingyi Liさんともお話してみたかったな
misuseとqueer useの違い、「queer useのための道具鍛冶」は矛盾しているようで、そうした逸脱をアフォードするツール開発は可能だって話。ちょっと自分の興味に寄せすぎだけど。
SFPC以来の寮生活? 的なもので、10代の頃の自分の身なり、身体への自意識を久々に思い出した(執拗にシーブリーズをしまくる的な)
独立系アニメーションとHCIは(完全に内側に入り込んでないのか)有意にフェイクが少ないように見受けられるのが僕は好き、スターを持ち上げるとかそういう文化も無いし、みんなその人の活躍っぷりじゃなくて、その人の成果物そのものをちゃんと見ている
demosceneの人が独立系アニメーション、『グリッチアート試論』やRosa Menkmanに、モーショングラフィックスの人がマシン・ラブ展に行く、みたいな誤配は積極的に引き起こして行きたいのだけど(TOCHIKAさんの偉大さを知る)、その誤配によるリアクションを当のハイアートを自認している側がナイーブなものとして切り捨てることも往々にして起きていて、なんだかなーとおもう
今更だけど、AI絵師サービスに、もしサザエbot的な「わざとさ」があれば、距離は置きつつもリスペクト出来たんじゃないかって思う 蓋を開けてみれば存外天然でやっていたところが寧ろさみしい
「宣言的な記述フォーマットは、アドホックにプログラミング言語的機能を取り込もうとする」という自分なりの説がある CSSのcalc()やvariables、AWS CloudFormationやHoudiniのJSONを用いた設定ファイルとか (思ったより浮かぶ例が少なかった
平川さんのAI関連の投稿や発言に関して思うこと
技術によってどう暮らしぶりや働き方が変わるか、という未来予想は、技術そのものに疎くてもニュースを追っていれば誰にでもできる
(あくまで技術への造詣に限った話で)平川さんや深津さんレベルのオンチでもできるのだから
世の中の変化を、何か不可抗力な流れのように語るのは違う 結局は人の思惑によって、人為的に引き起こされるもの
士業の自己保存
DX化してもなお、それを上回る速度で法制度は複雑化するので、士業が必要とされ続ける
インボイス、軽減税率
「どうなるか」じゃなくて、「どうしたいか」を語れよ、的な
ソフトウェアエンジニアの世界がそうだった
利潤追求の観点でいえば、ソフトウェアは知財であって、クローズドにして当たり前
けど、全プレイヤーがそうしていたら、ショボいナッシュ均衡に陥っていた
「資本主義な世の中だとそうなるのは抗えないよね」という稚拙な諦念に対して、ソフトウェア、ないし人類にとってのコモンズはどうあるべきか、という信念を携えたハッカーたちが、今日的な開かれたソフトウェア開発の礎を築いた
ハロウィーン文章に対して、ハッカー達が「まぁ、私企業だもの」っていう風に割り切っていたらどうだっただろうか
CopilotがGitHubのソースをクロールしてるというニュースのにすら、(それによってホスティングサービスとしてのGitHubがマネタイズできる可能性がある、という可能性を脇において)ちゃんと開発者達は憤っていた
会社には会社の理屈があるように、ユーザーにはユーザーの理屈がある ユーザーとしてどうあってほしいか、というのは、会社の都合を弁えなくても声を上げたって良い
そうした声の存在そのものが、経営の合理性などとは関係なく、会社の評判に作用する。会社の方針を変える動機づけになる
実際、デザイナーたちが生きているソフトウェア世界の閉鎖性は(Adobe, Figma等)は、もしハッカー達が、そうした経済原理に対して無抵抗だったら、という歴史のIFを辿っているとも言える
「この投票の結果はどのくらいになるか」という客観的な視線と、その上で自分は何に投票するか、という行動は両立する
自分は何を選ぶかという離散的な決断の集積が、人力モンテカルロ法よろしく全体最適を導く
自分の意見やお気持ちを表明せずに、その多数決の重心を言い当てることに執心するのは、結果的にその多数決の質自体を下げる
低いレベルで「メタ」であろうとする人ほど、自分を観察者だと思いたがる
自分もまた世界の一部であり、むしろ自分のお気持ちや決断こそが、世界を形作っていくという視点の欠如
AIに対する議論の多くは、ミームとしての技術が(世界中の才能の認知リソースに寄生しながら)どう自己複雑化するか、という技術中心の話と、その技術がどう法整備され、誰に寡占され、どう社会実装されるか、という人間社会サイドの話とを混ぜこぜにしている
#memo