よさ
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──「あのビデオは、そうですね、よさを意識しました」だよね。でも、そういう意識あったでしょ。ギミックないもんね。スローで撮るっていうのは別に新規性ないからむしろそこに絡め取られちゃうとつらいくらいの。
細金 そこらへんに関してマジメに言えば、アイデアものに飽きてるわけですよ。あるアイデアで、こういう手法で、こう撮ったのが新しいみたいなのは、もうね。もちろんミッシェル・ゴンドリーとか大好きで、ずっと見てきたわけだけど、そこを頂点としたMV制作の流れがずっとあったじゃないですか。
──トンチ合戦ね。
細金 トンチ合戦はもういいや。言語化しても確かめられないところでやりたいなっていうのはありましたね。
汲み取るに、こういうテクノロジーを採り入れているから新奇だ、こういうトンチが効いているから面白いといった要素に還元できない、全体論的で非言語的なよさ。より狭義には、あまり擦られてこなかった対象、場面、組み合わせの魅力に不意に気づかされたときの嬉しさ。ファウンド・アート的面白さ。
この記事が公開された2013年は、OK Goは毎四半期に話題のMVをドロップし、広告・Web畑のクリエイティブ・ディレクター主導のインタラクティブMVが流行っていた時期でもありました。業界全体がそういったトンチに食傷していたのも上記の発言に関係している気がします。
彼らが込めたほんのりとした露悪的ニュアンスはさておき、このツール考では、その成果物がなんらかの意味において、求められる性質に適っているように感じられるさまを「よさがある」と表現します。そのよさが映えを意味するのか、技巧性か、知的興奮を誘うのか、はたまたKPIなのかといった個々の指標には立ち入りません。むしろ、多少なりとも主観の入り混じった価値を漠然と指す言葉として「よさ」を用います。こうすることで、議論の絶えないアートやデザイン論、美学的考察からから距離を置きながら、よさを追求するための一般的道具としてのツール考にフォーカスすることができます。
よさの性質
この考において「よさ」に要請され、またその帰結として備わる性質です。一般的概念としてのよさの定義ではありません。
(1) よさは経験的にしか知ることができない
(2) よさは重心をもち、ある程度定量化することができる
(3) よさは主観や外因、あるいはよさそれ自身の影響を受け、時間変化する
(1) は実際にそれに触れることで初めてよさを測ることができることを意味します。まだ観ていない映画のよさを知ることは不可能です。また、よさは対象自身に内在する性質ではなく、対象にふれる個が主観的に感じる量とも言えます。
(2) は、この場合のよさが高さや価格のように客観的事実として在るものではないことを意味します。「快適な気温と温度」には評価の重心があり、不快度指数といった形で統計的に曲線近似することができます。芸術分野に例えると、「音楽としてのよさ」はあまりに漠然とし過ぎているので、よさの対象からは外されます。一方で、踊りやすさは何らかの方法でおおよそ定量化できると言えます(文化人類的に興味深いテーマではありますが、ノイズミュージックよりはハウスの方が踊りやすいという性質は普遍的といっていい気がします) 。Spotifyでの総再生数はリスナーを問わず不変なので、この場合のよさとは言えませんが、好感度のような主観的な量のひとつの評価方法といて用いる場合にのみ、このツール考の対象となり得ます。同様の理由で、KPIは「よさ」そのものではないものの、よさの指標として扱うことができます。
(3) はそのものズバリです。これは単によさのパラメーター空間に時間軸を加えれば済むという話ではありません。よさの評価関数は、環境の変化はもちろん、 よさの追求集団や享受集団の分布の影響、そして、よさそれ自身の現在値の影響を受け、複雑に変化していきます。一度よさを極めてしまえば、未来永劫よくあり続けることはありません。うごめくよさの波を読みながら忙しなく移動するか、よさの頂上にいる優位性を利用して、よさの評価関数や、探索空間上の操作距離そのものを自分に有利に書き換えつづける必要があります。 関連項目