経験と経験値
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考えているうちに「言葉に引きずられていく」人が多いよね。言葉というのは、二項性をベースにしているから、つい、あれかこれかという二項対立の図式に話が引っ張られていく。思考をうまく操れる人は、言葉の二項性を対立的にではなく、別の二項性につなげて、鎖列的に使うすべを心得ている。整理すると、 1.経験値を高める。経験値とは「脳化された情報」のことで、アナロジックなネットワーク構造を持つ。 2.問題に即してパターンを直観する。
3.状況を分析してパターンに再統合する。
この3つのフェーズを自覚的に操作することが「考える」ということの総体的な内実である。 これはちゃんと自分の方で整理したほうが良さそうggkkiwat.icon
経験値は、単に経験の量によっては高まらない。思考に蒸留された経験の意味が結び合い、未知の事象を捉える網として活用できる、そのことを以って「経験値がある」と云う。経験を「経験値」として織り上げることのできる人間にとっては、どんな経験もその「網」の目を精細化する縦糸横糸となる。読書もまた、経験値の網の目の一本の糸として、織り込まれてゆくだろう。ただこんな経験をした、こんな本を読んだ、それだけでは、何の意味もないのである。独学とは、この「経験値の網」を織り込んでいくことである。偉大なる独学者吉本隆明が「本を読むときは、自分の気になったところを芋蔓式にたどっていくことです」と言っているが、つまりはそういうことだ。 独学者とは「経験値の網をアナロジーを以って編むプラグマティスト」の謂である。インターネットは、「独学者=ネットワーク」間のネットワークが累乗していくメディアとなってもいいはずなのだが、もうひとつそうなっていないのは、中途半端極まりない「バカな秀才」「亜インテリ」が、権威主義的な抑圧者として振る舞う、その喚き声が大きすぎる故のことだろうね。