心身平行論
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汎神論なので、心身は独立して並行しているが、本質としては一つである、と捉える 人間の存在者としての主体性はない(自由意志の否定) デカルトの心身二元論では精神と身体は異質なものとして隔絶しているため両者の結合を説明するのは原理的に不可能であった。 スピノザはこの問題を解決するために精神と物体を実体とみなすことを止め、デカルトがその曖昧さ故に排除した「自然」へと回帰した。スピノザは身体と共に理性の表出根拠も同一の自然の中に求め、こうした精神と全自然との合一の認識は「神への知的愛」と呼ばれた。この精神と身体を算出する自然は「能産的自然」とされ、その創造性から「神」とみなされた。これがスピノザの汎神論を表す「神即自然」であり、神のみが唯一の実体とされた。こうして精神と身体は「思惟」と「延長」という二つの仕方での表出であるという考えを示し、「心身平行論」と呼ばれた。また「観念」と「物体」の秩序と連結は同様であるとして、自然的身体の中にその根拠を求めることで心身結合を説明した。だがここにおいて心身は「永遠の相の下に」投影された影の如きものであるがために、個体性を認められないという問題が生じた。 スピノザは、人間の精神とは人間の身体の観念あるいは認識に異ならないといっている。どういうことかというと、スピノザはデカルトのように精神と身体とを峻別した上で、その両者の関係を考えるのではなく、人間の精神も身体も、神という実体の属性としての表れなのであり、もともとひとつの実体であったものがその属性を通じて、精神として現れたり、身体として知覚されるにすぎないと考えるのだ。神という実体においては、精神と身体とは融合しており、それが人間という個別的な場において、精神としてまた身体として認識されるというわけである。
第一に、デカルトでは精神と物体=身体とは「実体」である。いわゆるデカルト主義的二元論である。これに対してスピノザでは、実体は神ただ一つであり、神の本質が延長と思惟として表現され(いわゆる「属性」)、こうした延長と思惟との派生態(いわゆる「様態」)が精神や物体=身体なのである。したがって、デカルトでは実体的、実在的に峻別されていた心身は、スピノザでは同じもの(実体)の二つの側面(属性)の派生物でしかない。
このことは、両者の能動−受動概念に決定的な差異をもたらす。なぜなら、デカルトでは上に見たように、精神と身体とが相互に能動−受動の関係におかれたに対して、スピノザでは、そうした能動−受動は考えられない。なぜなら、精神と身体とは同じものの二つの側面であるに過ぎないからである。したがってスピノザでは、ある精神=身体が能動であったり受動であったりするのは、別の精神=身体との関わりを持つからであることになるのである。
こうした両者の能動−受動概念の差異は、幾つかの点で、次のような結論の違いを導くことになる。
1)デカルトの情念論の目標が、精神=受動/身体=能動を逆転し、精神の身体=受動に対する支配権を確立することであったのに対して、スピノザではそうした治療法は不可能である。いわば、スピノザでは、デカルト的な操作主義が否定されていることになる。
2)では、スピノザ自身はどのような治療法を考えるのか。スピノザは、自然の中に存在する個別的な存在者である我々は(デカルトとは違って実体ではないから)、他者との関係を絶対的に絶つことはできないと考える。したがって、そうした関係から生じる感情を完全に克服することは全く不可能である。しかし、スピノザでは、能動−受動は同時に認識に関わりを持っている。つまり、我々が感情を正確に認識すれば、その感情は既に受動ではなくなるというのである。しかも、デカルトでは情念=パッション=受動であったが、スピノザでは感情(アフェクトゥス)は受動的なものばかりではなく、能動的な感情があるとされるのである。これはデカルトにとっては驚天動地の結論である。
3)デカルトの情念論は、上のような能動−受動概念に基づく以上、個々人それぞれの精神−身体の関係を基にした、個人的な道徳に関わるにとどまるのに対して、スピノザの能動−受動概念に含まれるのは、他者との関係の論理であり、ここからは社会理論にまで至る射程を持つことになる。