形而上学
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辻村伸雄.icon たとえば哲学は形而上学とも言いますけど、それは形を超えたものについての学、すなわち目に見える現象の奥にある、目には見えない原理を扱う学として始まったものです。見えないものを、見えないのだけど、見ようとする。それが形而上学です。
石倉敏明.icon 実はヨーロッパの知的伝統では、形而上学は、必ず形而下学とセットになっている。一つのフィジックス(形而下学)と複数のメタフィジックス(形而上学)があるということ、言い換えれば、たった一つの「目に見える地球」に対して、複数の「目に見えない世界」があるということ。こうした見方を人類学者のフィリップ・デスコラはナチュラリズムと呼んでいるんですが、僕たちはいまその限界の外にある別の存在論をどう扱って行けば良いか、という問題にも立ち会っていると思います。 つまり、目に見えないものがすなわちメタフィジックスであると考えてしまうと、目に見える世界全てが単一の自然ということになってしまう。こうした見方に対し、実は最近ではコンパラティブ・メタフィジックス(比較形而上学)という考え方が現れてきていて、形而下と形而上の関係性には、たくさんのヴァリエーションがあり得ると指摘されています。形而下の現実と形而上の世界は、実は知的なブリコラージュによって組み換え可能である。そのように見ることで、目に見えるものと目に見えないものの境界は、西洋以外のさまざまな存在論の様態と関連づけられていくわけですね。すると、天文学者が考えた宇宙のハーモニーはより多声的な作曲法になっていくし、ノイズを孕んだ音律も現れてきます。歴史と神話の関係についても同じようなことが言えるのではないか、と思います。 一方で、今回のパンデミックは、世界の多元性というよりは単一性の現実に直面している「同期化」が発生しています。今日では、世界全体が同じウイルスに直面している。つまり、「たった一つの世界」に我々は向き合わざるを得なくなっている。しかしながら、ウイルスは目に見えないものであって、接触感染や飛沫感染によって増殖し続ける多様体であり、変異体でもある。世界全体の人間たちが、同じように感染症のリスクを抱える「たった一つの世界」に暮らしていること。そして、それぞれの社会ごとにその受け止め方や対処法に違いはあるとしても、少なくとも同じようにこの厄介な「目に見えないもの」のリスクに直面しているというのが、現状です。(p334-336)