啓蒙思想
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ジョン・ロックの影響を受けつつ、理性を重視し非合理的なものを徹底的に批判し、民衆の中に正しい知識を広めることによって、新しい社会を作ろうとする思想 人間が生まれつき持っている理性以外の権威を認めない、ということ
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啓蒙思想とは
神,理性,自然,人間に関する観念が一つの世界観に統合され,多くの賛同者を得て,芸術,哲学,政治に革命的な発展をもたらした 17~18世紀のヨーロッパの思想運動
カントの言い方によれば,〈人間がみずからに負い目ある未成熟状態から脱すること〉へと働きかけ,こうして,理性的自立的な人格の共同体の実現を目指すことにその目標はあったと考えられる。
原因となるものを徹底的に批判し破壊することがそのまま真理の道へ通じる
vs 宗教
宗教批判 by ドルバック
理神論
人間の可能性は,正しい「理性」によって切り開かれるもので,そこにこそ真実の認識と人類の幸福とを得ることができる
自然、唯物論
これまでの神の位置にかわった、自然を存在論的原理とする唯物論
ドルバック、ラ・メトリらの唯物論者たちは、人間的なものが宗教的彼岸のうちに組み入れられるのを拒否するために、精神を含めたいっさいをいったん自然=肉体に還元し、一元論的な世界観を展開しようとした
このような自然の大胆な肯定は、当時、急速な発展を遂げた近代科学技術によって、ベーコンが提唱したような自然支配による人間の幸福の可能性がみえたからにほかならない。ディドロ、ダランベールらによるこの時代の輝かしい成果である『百科全書』が、「科学、技術、工芸の合理的辞典」と名づけられているのはその象徴である。
ペローとボアローに端を発した「古代近代論争」、コンディヤック、ルソーらにおける「言語起源論」
楽観主義
コンディヤックらの形而上(けいじじょう)学批判
ディドロやルソーにみられる強烈な社会批判
相対化、寛容の精神
スコラ哲学の陥落 by ヒューマニズムとルネサンスと宗教改革 スコラ哲学は「理解の道具としての理性を否定して,理性を精神的啓示とキリスト教により明らかにされた真理の下位に位置づけた」
F.ベーコン,N.コペルニクス,G.ガリレイの実験科学と,R.デカルト,G.ライプニッツ,I.ニュートンらの数学的正確性に寄与
ニュートンが地球の動きを司る法則を数学の方程式で表わした
古典文化を再発見し,創造的存在としての人間の観念をよみがえらせた。
ベーコンやデカルトと同様,M.ルターにとって真理にいたる道は人間の理性の適用にあった
批判的,改革的,そして最終的には革命的
イギリスのロックと J.ベンサム,フランスの J.-J.ルソー,モンテスキュー,ボルテール,アメリカの T.ジェファーソンらは,専制的な独裁国家の批判と,自然権に基づき政治上の民主政体として働くより高い形態の社会組織の概略を描き出すことに貢献した。こうした強力な思想はイギリス革命やフランス革命となって現れた
封建制度・専制主義・教会などに対する批判を生み,アメリカ独立革命やフランス革命などの近代ブルジョワ革命を思想的に準備した。
宗教思想(理神論,ボルテール,レッシング),認識論・知識論(カント,ヒューム,百科全書派),社会思想(モンテスキュー),経済思想(スミス)など,多様な領域で革新と〈中世的遺制〉に対する批判が展開された。そのシンボリックな帰結がフランス革命。理性と進歩への過度の信頼はロマン主義以降の反動を招くことになる。
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逸見先生のこの言葉はきっと一生忘れないだろう。「18世紀は理性の勝利の時代ではない。中心を欠いた無数の声が湧き上がってくる絶望の中で誰も裁定者がいない、そこに啓蒙が生まれる。なぜなら暗闇にいる者の内にこそ光があるからだ」啓蒙とは遍く照らされた神の光に応え、自らが発光体と気づくことだ
18世紀の中心を欠いた社会で無数の声の空間に、百科全書的な自らの光に気づく啓蒙が生まれるように、20世紀の戦後のシュールレアリストたちもまた百科全書を好み自らの光を探した。中心なき社会で際限なき声が沸き起こる時にはいつでも、至る所で、自らが発光するための〈啓蒙〉が生まれるのである。
フランスで習う哲学史では確かに自らが意識して18世紀に「啓蒙」と思想家達は標榜したと教えられる。面白い先生がいて、啓蒙というのはインド思想のブラフマンとアートマンのようなものだという。つまり神に遍く照らされた光と内なる光が同じだと気づくことが啓蒙だ。無知を導く運動ではないと言われた。その意味が逸見先生の言葉でようやく実感できた気がする。ただ内なる光に気づくだけでは啓蒙ではない。中心なき無数の声が溢れる場所で、自らが発光体となることが周りも照らすのだ。イギリスからフランスを経てカントが語る啓蒙には確かにこの感覚が内包されている。〈啓蒙〉という明治の翻訳語はそろそろ変わらなければならないのかもしれない。〈自光〉思想ともいうべき、極めて能動的な、全ての人が参加すべき発生的な概念なのだ。