制限が生む幸福
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エロティシズムの本質は禁止の侵犯にある
禁止を不安のなかで侵犯する欲望がエロティシズムの魂。 侵犯は禁止そのものを無くすわけではなく、それをいわば一時的に解除するものだ。私たちは禁止を侵犯するとき、不安を感じる。不安のなかでこそ私たちは禁止の存在を意識する。禁止の侵犯を達成すると、今度はその禁止を楽しむために、あえて禁止を維持する。 「禁止は侵犯されるために存在している」のだ。
違犯とは禁止の消滅ではなく,禁止の乗り越え.
一言で言うと、人間は労働によって動物と異なるようになったのだ。と同時に、人間は禁止という名で知られている制約を自らに課した。たいがいの場合、労働は集団の要件である。そしてその集団は、労働にあてられた時間には、伝染性の過剰の運動に対抗しなければならない。じっさいこの過剰の運動の最中には、過剰への、したがって暴力への、直接的な埋没以外何も存在しないのだ。それだから、ある部分労働に専念する人間集団は、禁止という面で定義される。人間集団とは本質的に労働の世界なのであるが、もしも禁止がなかったならば人間集団はこの労働の世界にはならなかったであろう。 埋葬は死者に近づくことを禁止すること.
近親相姦の禁止は部族の中での娘の贈与システムが原因だろうとしている. どのようにして違犯されるか
table: 禁止と違犯
禁止 違犯
労働 祝祭
生産 消費
俗 聖
エロティシズムの次元では、祝祭はしばしば性的放縦の時間になっています。正真正銘の宗教的な次元では、祝祭はとりわけ供犠の時間であり、供犠とは殺人の禁止を侵犯することなのです。 犠牲やオルギアの殺害を通して,禁止が違犯される.
だから宗教には禁止と違反のメカニズム,エロティシズムが含まれている. どれだけ動物から遠ざかっているかに応じて美しさを判定される エロティシズムは、美と対極にある動物的行為、つまり性行為において発見できる. 美と醜のコントラストが強ければ強いほど、そこに生まれるエロティシズムも強烈なものになる. エロティシズムが感じられない時代には,生を実感できなくなる. そのためには
①三島由紀夫が行ったように、人工的に悲劇を作り、それに参入すること。 ショーペンハウアーは言う。「制限はつねに幸福に向かう。私たちの幸福は、私たちの視界、活動範囲、世界との接触部分が制限され、限界を定められている程度に比例する。」自分に制限を課さなければ、私たちはつねにそれ以上を望み、みずから満足の踏み車に乗ることになる。 ミシェル・フーコー.icon「ときには、自由は直接の抑圧と同じように抑圧的なものとなる」