ヴィジョン
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今の社会で、学歴や資格や具体的な技能は相対的なアドバンテージにはなるが、唯一絶対的なアドバンテージになるのはヴィジョンを持ち、それを語ることができる能力だ。絶対的というのは、それを持てば、競争の外に立てるということである。ヴィジョンを持つ、というと、それがあたかも所有できる能力であるかのようだが、実際はヴィジョンというのは「憑かれる」ものである。そしてヴィジョンに憑かれると、人は自ずと語り始める。或いは、何かしらの制作を始めることになる。なぜか。 「ヴィジョン」というものは、アブダクションの直観的把捉ということにほかならない。アブダクションは、身体においてアナロジックに結合した情報に「浸る」ことで作動する。その結合に新しい構造が与えられる、それがアブダクションの直感的把捉のメカニズムである。 ヴィジョンは、瞬間的に把捉されるが、それは「真理の天啓」といった超越論的なものではなく、論証過程による演繹ではないものの、あくまでも帰納的なアブダクションの作動によって掴まれるものなのである。だから、ヴィジョンを掴むには、帰納が作動するだけの情報への浸り込みの過程が要る。その「情報」には、言語によるもの、絵や音楽の形をとったもの、日常の経験、或いはもしかすると無為や夢を通した(ベルクソン的な意味での)「過去」、そうした「一切合切」が含まれる。そうした「一切合切」の広さ、深さをどれだけ汲み取れるか。 アナロジックに結合された情報の広さ、深さが基盤となって、アブダクションの「性能」に影響する。アブダクションの「性能」とは、つまりは具体性と柔軟性であろう。現実の場面にそのまま適用できるににもかかわらず、それは柔軟に形を変えて別の場面にもフィットする。 例えば、アラン・ケイの「パーソナル・コンピュータ」というヴィジョンは、パソコンという具体的な物として結実したが、同時にスマートフォンによる社会時空の改編にまで、その射程を持っていた。その意味でたいへんな柔軟性、包摂性を備えている。 アブダクションを把捉する=ヴィジョンに憑かれる、その前提に情報のアナロジックな結合状態があった。だから、その結合に言語情報が混在していれば、ヴィジョンに憑かれた人は、そのヴィジョンについていくらでも語ることができるようになるだろう。ヴィジョンとはアブダクションであり、アナロジックに結合された情報への浸り込みが前提される。だから、ヴィジョンに憑かれようと思うのであれば、自分の身体の「一切合切」をアナロジーで包摂していく態度が重要ということになる。本を読んでいても、仕事をしていても、友達と話していても、寝て夢を見ているときも、その経験をすべて経験値として結合する、換言すれば血肉化していく態度を持つことが必須となる。私は、ヴィジョンを持つ人間、見者、天才というものは、要は、そうした身体の傾向性を持つ者に過ぎないと思っている。すべての経験を経験値としてアナロジックに結合していくという身体の傾向性。それは、最近よく上妻君が言う「愛好」という態度で事物や事象に関わることで養われうるものだ。愛好という態度は、アブダクションの作動を抑制する様々な機制を解除していくことに直結している。何がアブダクションの作動を抑制するのか。 例えば、情報を外在的な既存のコードへ従属させる強迫観念にとらわれると、アナロジーの働きが阻害され、そのことがアブダクションの作動を抑制する。愛好という態度は、つまりその事物、事象が孕む過剰性の丸ごとの肯定である。言わば、外在的な既存のコードをはみ出した、いわく言いがたい魅惑への耽溺行為である。アブダクションを作動させる「情報」は、その「いわく言いがたい魅惑」のなかにしかないのである。 ヴィジョンの獲得は、天啓のようにトップダウンでも、修練のプロセスからのボトムアップでもなく、抽象概念と抱握と、制作実践を通した抽象概念の精緻化(身体化)という、実践と概念的把握との相互作用のなかで、より明確に自覚されていく。
各々生まれ持っての身体は異なるが、「ヴィジョン」を先取りする力能は「天才型」か「ハイパー型」のどちらかのタイプに発現しやすいように思う。天才型については、彼/女が、なぜ「ヴィジョン」を掴めるのか、その機序がよくわからない。ハイパー型は、おれ自身がそうなので、内観的に理解できる。ハイパー型というのは、簡単なことで、要はアナロジーの作動を完全に開放すればいい、それだけである。「自分」やそれにまつわる一切の物語を吹っ切って、加速すればそれで済む。簡単なことである。端的に言えば、寝ずに本を読む、出会う人ごとに愛し合えばよい。“その気になれば”誰にもできる。ただ、天才型であれ、ハイパー型であれ、ヴィジョンを掴むというのは、つまり直観を研ぎ澄ますということであり、その直観の働くメカニズム自体は変わらない。直観の働くメカニズムについては、少し前にノートにまとめておいた。 数学的直観|+M|note (…)直観が働くということは、それだけ近位項である「今・ここ」の事象についての解像度が高いということなのである。「今、ここ」の事象は、その一切が近位項として、遠位項である「構造」との相互包摂性のうちにある。確定的な事象と静的な構造が相互包摂的に存在するのではない。事象の解像度が上がるに比例して、それに見合う構造が創発される。構造とはヴィジョンであり、ヴィジョンとはアブダクションである。ここで、近位項とは、身体において実現していることを含めて考えれば、今、ここの解像度を上げるとは、身体の精度を高めるということになろう。 メンバーが抽象的な次元を共有してないと、集団の力学にのまれて、全員がポジショントークしかしなくなる、それをヘッジするための最低限のコンセンサスfreakscafe.icon
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