アナロジーを作動する
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ディレッタントという、いい感じの言葉を見つけたwggkkiwat.icon 「弛緩した集中状態」で読む
アナロジーを作動させるとは、同一性へと回収されていく求心的な思考の運動を、異質性が準同型としてネットワークする散種的な思考の運動へと移行することだ。そして、これは、結果的に、公理系秩序にとっては逸脱的・壊乱的に働く。(…)「異質性が準同型としてネットワークする」という事態は、換言すれば「モノが個物のまま関係と相互包摂する」ということである。モノはあくまでも個物であり、汲み尽くせない実在として現れる。アナロジックなネットワークは、汲み尽くせないモノに倣うという知的態度において広がっていくのである。 編集者談で、平出隆が、澁澤龍彦は新聞五紙を読んでいた、と話していて、へえと意外。だが、その読み方は、いかにもアナロジスト澁澤らしい。
《その読み方の速いこと。速読ですね。速いだけじゃなくて、私は何度も感じたんですけども、パッと本や新聞を開いたら、行きたいところに目が行く。》 アナロジストは、情報や物を、それが収まっている文脈から外れたところで観なければならない。つまり、周辺視野でみなければならない、という意味のことを書いたのは、バーバラ・スタフォードだった。アナロジスト特有の「速読」とは、まさしく書物を周辺視野において捉える仕方であろう。 澁澤龍彦にとっては、書物はアナロジーの宝庫、そしてまた、巖谷國士が説くように、自らの幼年時代もまたアナロジーの宝庫だった。書物も幼年時代も、いわば「類推の山」であった。改めて考えてみれば、「記憶」というものが「類推の山」として存在する。澁澤が記憶魔だったというのも頷ける。
そして、重要なのは、この「アナロジスト的記憶」というのは、個人に属するものではない、ということである。アナロジストにとって、個人はそのまま普遍へと直結している。個人-普遍に精神分析的な亀裂がないという幸福を享受していると言い換えてもよい。