ありのままの自分
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内的なもの/外的なもの、の差分がない
不均質な時間軸に生きる、Living for todayということ
そうあらなければならない、のに「こうありたい」ばかりを発現してしまっている。つまり「わかって」いない状態
等身大の自分をさらす表現力を持った人
そもそも自己評価としての「ありのままの自分」はあり得るのだろうか
方法論
変な間、外的な発現方法を熟慮するた目の間、を作らない
「あるがままの自分」を見出すには、いかなる偏向した期待も抱くことのない誰かに、自分の感情や思いのすべてを受けとめてもらえばよい。
「暗黙の何か」を語る
わざとでもいいから区切りを設定することで、自分の主体性が出てくる。というのは、本当の自分なんて結局どこにもないからです。自分自身の主体性の軸、主体性の殻のようなものは、つねにわざとでっちあげるしかないんですね。そしてわざとでっちあげたそれを、こねくり回したり、変形したり、補強したりということをくり返して、人は生きて死んで行くわけですよ。だからそのプロセスを適度に細かく区切ることが、生きて行く知恵であり、かつ、仕事術でもあると思います。(p38) 他人の目と自分の目を、自分について「合わせていくこと」、それが完全にできるようになれば、「心の欲するところに従って、矩を踰えず」となるだろう。それがつまり「自分を作る」こと。(p48)
自分の思いや考えを、自分らしくとりつくろうことなく、つまり嘘をつこうとせず、いつも本当のことを言うための言葉をさがす。自分らしさという嘘をつくのをやめる。本当の自分は、ちっとも自分らしくなんかない。いつも本当の言葉をさがしている人は、どんなキャラからもはみ出して、誰のようでもなく、とりとめなく、でもいつも強いビートを響かせている、そんな存在。 自分らしく生きるというのは、自分のタイミングで生きるということとほぼ同義