真理とは錯覚であることを忘れられた錯覚、使い古されて生き生きした力を失った隠喩
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人間は社会的に群棲して生存する以上、万人の万人に対する闘争をなくすように、平和の取り決めを必要とする。暗黙裡になされた社会契約こそが言語そのものの起源である。各人の一回性の個別的な体験の事実という本来は等しくないものを等しいもの(追記:経験の個別性)と見なすことによって、言語で表現される一般概念が成立し、また、この契約によって真理衝動が生み出され、真理と虚偽の対比が成立する(追記:真/虚)。社会が成立することと真理が固定されることとは相即的である。認識と真理は自然を支配するための手段にすぎない。 「真理とは錯覚であることを忘れられた錯覚、使い古されて生き生きした力を失った隠喩」であり、真理を語れという命令は「慣習的な隠喩を使えという義務づけであり、道徳的に表現すれば、固定した因習に従って嘘をつけという義務づけ、つまりは万人に拘束力をもつ様式で群棲動物的に嘘をつけという義務づけ」なのだが、それはじつは社会の成立と存続のために必要な義務なのである。ここには、言語は根源的な生を──隠喩的にしか──表現することができず、社会的に公認された真理とはすなわち虚偽のことだ、という見地である。
だが、個人は自己を保存しようとする限り、その知性をそういう偽装のた絵に使わざるを得ないのだ。ニーチェの根底には、そのような事実に対する耐え難さの感覚があることは確実である。彼は、真の強者は言葉を話さない(追記:沈黙)──話しているときでも本質的な意味では話していない──と考えていたであろう。(p64-65)