『ヴァーチャルとは何か?』ピエール・レヴィ
大学時代に卒論の関係もありでよく読んでいた本
監訳者の先生が f_subal.icon の大学の指導教官でもあった
タイトルからはいわゆるふつうのヴァーチャル・リアリティ論(3D空間でアバターがどうとか五感がどうとか)を想像するかもしれないが、この本にそういう話はいっさい期待してはいけない
にも関わらず、ちゃんとそういう話とも繋がるような概念整理を試みた本であり、かなり抽象的かつ変な角度の本だが f_subal.icon はけっこう影響を受けた本である
この本で #ヴァーチャル がどういう定義をされているかを f_subal.icon なりに噛み砕くと「ある概念の定義が(技術などによって)変化させられること」だと言える どちらかというとこれはヴァーチャル性というよりヴァーチャル化の定義だが
ピエール・レヴィの言い方では「問題提起化されること」とか「脱領土化されること」みたいに表現される
脱領土化(deterritorialization)はドゥルーズの用語に由来する
レヴィはまず例として( #リモートワーク などによって)企業のオフィスがヴァーチャル化するという事態を挙げている この本は原著が90年代なので、指してる状況こそ現代的だがその呼び方が今っぽくないケースがある
たとえば今日日「ヴァーチャル企業」という言い方をリモートワークの文脈でする人はあまりいない
し、当時のレヴィは「リモートワーク」という言い方はしていない(私がわかりやすいように言い換えているだけ)
これは私の理解では、元々「オフィス」というものは建物の種類とか物理的に同じ場所で働いてる状態のことしか指さない単語だったのが、新しい技術によって変更を余儀なくされている状態だと言える
「オフィスがヴァーチャル化する」とは、「オフィスという概念の意味がこれまで通りでなくなること(=問題提起化されること)」である
これだけ聞くと、一見世の中で言われている「ヴァーチャル」のイメージと乖離しすぎていて、何を言いたいのかよくわからないかもしれない
が、素朴な発想の技術批評では「ヴァーチャル」というものを素朴に「リアル」の対義語(本物じゃないとか現実ではないとか…)の意味で使いがちなので、これに対するカウンターとしては実は意味がある
そしてレヴィは後述するように、ヴァーチャルの対義語がリアルであるという考えを批判している
しかし、批判の仕方がふつうの VR 工学者と全然違う理由からなので、初読の人はそこで混乱することになる
ところでふつう、工学的な文脈でのヴァーチャル性は「表面的には異なるが、実質的に(virtually)同じ機能を持ってること」みたいな定義がされる
ただし f_subal.icon はレヴィのヴァーチャル性の定義と工学的な定義は指してる局面が違うだけで両立すると思っている
素朴にヴァーチャルを「現実ではないもの」と捉えている人がリモートワークを解釈すると、まず「現実のオフィス」という場所があって、そうではない「非現実のオフィス」があるみたいな捉え方になるはず
実際このような捉え方の人間は21世紀にも存在しているだろう
「ヴァーチャルな人間関係」と言ったときにどこか「嘘の」というニュアンスを込めがちなタイプの人、というステレオタイプは残念ながら今もある
しかし今リモートワークをしている人々は Slack や Discord なども「働く場所」として捉えているはず
だし、チャットに入ることを「出勤」のようにさえ表現するはず
2026年の今だとまだ「オフィス」という単語は建物のニュアンスが強いけど
そういうツールもオフィスと呼ぶ人がいてもおかしくはないかなぐらいの感覚があるはず
つまり「現実のオフィス」と「非現実のオフィス」というのがあるのでなく、成功した技術が「出勤」とか「オフィス」という単語の意味を変えてしまったというのがより正確な捉え方である
……というような状況を指して「オフィスがヴァーチャル化した」というように表現するのが、レヴィ的な意味でのヴァーチャル化である
概念の新しさを生んでいるか、の方に本質がある #新規性 道具とは身体の延長(マクルーハン)ではなく、行動のヴァーチャル化である
ただし、このような意味の変更があまりにも成功してしまうと「いや、元々そういう意味が(オフィスや企業という単語に)あっただけでしょ」というツッコミもできてしまうのだが、言いたいことはまぁわかる
これは上で挙げた工学的な意味でのヴァーチャル化とは特に矛盾しないと考えられる
(みたいな話はレヴィはしてないので、以下は f_subal.icon が勝手に解釈した部分)
たとえばもし自分が VR 的なものを実際に設計する際は、「人間のこの行動の中で本質的な部分は〇〇だからそれを抽出したいなー」のように考えるはず
「掴むとは触覚へのフィードバックを受けることだから(本質)、それを実質的に再現しよう」みたいなことを考えるだろう
こういうときには、「表面的には異なるが、実質的に(virtually)同じ機能を持ってること」を目指す定義のほうが現場の実感に即しているはず
見た目と機能を分離する発想は技術者には受け入れやすい概念だ
一方、ある技術を見たときに「それが本当に対象をヴァーチャル化したと言えるか」を判断するときにはレヴィの定義が有用だと思われる
たとえば、万博会場を3Dで再現したものを指して「ヴァーチャル万博会場」と呼ぶようなコンテンツがあったとする
しかしそれを見ている人は(仮にいくらそれを楽しいと思ったとしても)「私は万博に行った」とは言わないし思わないだろう
つまり「万博に行く」という言葉の意味を変えることに成功してない技術だということになる
少なくともチャットツールがオフィスを代替する力に比べたら、3D空間が万博会場を代替する力は大したことがない
VR工学者も「その抽出が表面的か本質的か」でVR万博を批判することはできはする
「3Dモデルで再現できるのは表層の見た目だけだ」とかなんとか
が、レヴィ的な立場では「その技術はなんの行動をヴァーチャル化したのか」という観点からのツッコミをする感じになる
ので、見ているポイントが違う
技術が社会に与える影響っぽい話をするときに、「その技術は我々の言葉や概念の意味を変えたか」の話に持っていける点でレヴィのヴァーチャル概念にもいいところはある
ところでレヴィは映像が実物の代わりになること自体はまぁそういうこともあるでしょうという感じで特に批判はしてない
たとえば「テレビでもう見た」という言い方が可能なのは、テレビがその場所を見ることの意味をヴァーチャル化したからだみたいなことを言っていたはず
というのが一般的なヴァーチャル観に対するレヴィの批判である
ところで、レヴィは「ヴァーチャル」の反対は「リアル」ではないと述べている
代わりに、「ヴァーチャル」の対になるのは「アクチュアル」であると述べている
どういうことかというと、一般的にはリアルとヴァーチャルは以下のように捉えられているはず
code:plaintext
リアル <------------------> ヴァーチャル
(物質的・目に見える) (非物質的・目に見えない)
が、レヴィに言わせれば「物質的かどうか」と「目に見えるかどうか」は独立した軸である
たとえば、眼の前で起こっている出来事は、モノ(thing)とは違うコト(event)の秩序に属する
したがって以下のようになるはずで、かつ残りの2つが見落とされているという主張をすることになる
table:レヴィの分類
表に出てる 表に出てない
モノ的(実体) リアル
コト的(出来事) ヴァーチャル
レヴィはここでドゥルーズの分類に習い、以下の4つを基本概念を理論に据える
これにより、技術的な意味での「ヴァーチャル」と、これまで哲学で言われてきた「ヴァーチャル」や「実在(リアル)」の意味が実は繋がっていたんだよ!という方向に議論を引っ張っていく(な、なんだってー?!)
table:レヴィの分類
表に出てる 表に出てない
モノ的(実体) リアル ポテンシャル
コト的(出来事) アクチュアル ヴァーチャル
しかしこの枠組みで世の中の現象を見るときに、ここはアクチュアルだけどリアルではないとか、そういう区別をするのは実際には難しいところがある
たとえば先の「オフィス」という単語の意味が変わるプロセスの中でどれがどれに対応するのかを考えるのは難しい
オフィスというリアルな物体があって、その意味がヴァーチャル化で問い直されるのだとして、もとの意味が指してる範囲はリアルなものなのか?あれ?みたいになる
たぶん伝統的な哲学っぽい解釈を取ると……
1. 言葉は元来ヴァーチャル性を持つ(指す範囲が確定しておらず、いつでも変わりうる)
ヴァーチャル化とはその事実が意識されるようになった状態にすぎない
2. 人間が発話するたびに、その都度確定した意味が実現する(アクチュアル化する)
3. そしてその裏には言葉で指されている実体(リアルなもの)がある
4. 実体がとりうる状態は、いまたまたまそうなってるだけで、別の可能性(ポテンシャル)でもありえた
ただし、可能性の空間というのはただ分母の数が多いだけで、指す意味はそれぞれ確定しているので、ヴァーチャルなものとは違う
……みたいな整理になるのだと思う
レヴィもこの世のすべての現象はこの4つのどの面も持っている(そして絶えず入れ替わっている)みたいなことを言うので、しかたがない面はある
頑張って整理はしているが正直この点は自分も腑に落ちきってない面がある
------
ところでレヴィは別に本業はVRの研究者とかではない
情報社会論をメインとする哲学者である
そしてメインの関心は「集合的知性(いわゆる集合知)」である
なのになぜこんなにヴァーチャル性の話を扱うのかというと、技術が人間の知識や概念に与える影響の話をするのにここで言うヴァーチャル化の話がつながってくるからだと思う
そういうわけで『ヴァーチャルとは何か?』という本は、途中からは「道具が人間の知性に与えた影響史」の話が多くを占めることになる
科学史やら人類学やら経済の話が出てくる
タイトルからふつうのVR論を期待した人は大体この辺でふるい落とされるはず
しかし情報社会論の本は道具が人間の知性に与えた影響の歴史っぽい話を好むので、人類学の話が出るのは実はあるあるなのだ!
が、ここまでの議論を踏まえると話がある程度見えてくるはず
そもそもヴァーチャル化とは概念の意味を変更することであり
それは一般的なVRっぽい話とも矛盾せず
かつ技術が人間の知性に与える影響っぽい議論と密接な関係があり
そういう議論の蓄積があるのは「人間の道具の歴史」みたいな話である
という構造の本ということになる(そんなの初見でわかるか!)