趣味について文章を書くときの心構え
好きや萌えについて語った文章で、「好みは人それぞれで~」とか「あくまで一個人の~」みたいな文言を見るとがっかりしてしまう。そんなのは当たり前のことであり、それがわからない人間はそもそも読むなという態度で書く方が良い
価値観の話をしている以上「どっちが優れているとかじゃない」とか「自分にとっての話である」なんてのは自明の前提で進んでいるのに,ブログ記事とか価値観を書いた文章に対して何でもかんでも「お前がそう思ってるだけなんだろ」とか言う人間ホントに脳みそついてんのか???????
というような話について。
これらのツイートはずいぶん昔だが、前提として私のこの考えは今も変わっていない。
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多くの人は「主観的である」ことと「非論理的である」ことを混同している
実際には主観的なこと(自分の気持ちなど)について筋道立てて語るべきシチュエーションなどいくらでもある
まともな大人ならそれぐらいできろという気もするが、そうでない読者もいる
ただし、自分の考えを出すことを恐れているせいでこうした考えを内面化している人もいるので、そうした人にはある程度気を配る
#文章 で書くこと=説得が目的であるという前提を持った人々に対処する 「お前がそう思ってるだけなんだろ」といったツッコミはこうした人々から生じる
そもそも価値観の話をしている時点で自分の話であることは自明なので、これがツッコミになると思ってる事自体がおかしいのだが、それは置いておく
こういう人たちに読まれることを可能な限り回避する
多くの人に読まれるタイプの文章の場合、できれば読む難易度を上げてふるい落とす
こういう人々に読んでもらって良いリアクションをもらうということは一切期待してはならない
読者をふるい落とす際にはそうとバレないように気をつける
変に難しい用語を使うのはかえって舐められるので避ける
もちろん意味があってその用語を使うべきシチュエーションでは全力で使う
あるいは逆に、絶対にわからせてやるといった暴力的な誠実さを大事にする
誠実な文章にふるい落とされた場合、それはふるい落とされたほうが悪いと考えられる
人は文体で判断する。服装で判断されるとかと一緒
人が「それは主張の押しつけだ」というとき、だいたい内容ではなく文体が嫌いであることを示している
逆説的に、きわめて論理に誠実に書くことが読者を選ぶ(ふるい落とす)ことにつながると考える
これをわざとやるのが大事
暴力的な誠実な文章の例としてはたとえばピーター・シンガーとかが挙げられると思う
仮想敵を用意する
「お前が思いつく程度のことはこっちは当然思いついている」と言える状態を目指す
これを基準にセルフチェックを行うと文章のクオリティが上がる
その状態を作るために、脳内にその文章に反発を覚えそうな仮想敵を置く
感情の問題として、自分を悪く言う人間が自分より頭が良いと腹が立つのでこれに対処する意味でも必要