言語化右派と言語化左派
最近自分が勝手に使ってる分類として「言語化右派」と「言語化左派」という概念がある。
響きが #政治 的なので人に向けて言うのはやや慎重になるべきだが、そのような区別が存在すると思う。 この区別は「良い説明ないし良い #言語化 とは何か」という価値観に関わっている。 これらは政治的立場とは別であり、政治的には左寄りだが言語化右派であるような人もいるはず。
言語化右派とは、言語化に対する保守主義の立場である
つまり「良い説明とは過去に誰かが言ったものである」を基本的な考えとする立場である
人間はほっとくと(すでにそこにあるはずの)良い教えを忘れるので、過去の教えに立ち返らなければならないと考える
校長先生の話や結婚式のスピーチのような、聞く前からすでに知ってたような結論を目指す話は保守的なものである
言語化右派の人は、何かに迷ったときにはすでに知られているセリフや名言に立ち返ることが必要だと考える
人が人生に迷うのは何らかの意味で「初心を忘れている」からであり、良い言語化とはそれを「思い出させる」ものだと考える
言語化右派の人は、よく知られたフレーズには人を励ます力があると思っている
あるいは、どうせ自分はそれより良いものを思いつけないというような考えを持っている
新しい説明を考えたり、ふつう言われるようなことから離れたような言語化をする人を見ると「わざわざ素直でない言い方をしている」と受け取る
#Twitter の引用リポストで「そんな難しい言い方しなくても素直に〜と言えばいいでしょ」みたいな発言をする人はこの意味での保守主義者である あるいはこの記事を読んで「それって〇〇を違う言葉で言い換えただけでしょ」みたいに思う人も言語化に対する保守主義者かもしれない
言語化左派は、言語化に対する革新主義の立場である
つまり「人間はほっとくと良い説明をしなくなるので、常に新しい説明を発明しなければならない」と考える
言葉はほっとくと錆びるし、慣れた言葉を使いすぎるとアホになるがベースの前提になっている
言語化左派の人は、世間でよくあるフレーズには人を励ます力がなく、むしろ人間を世間の常識に閉じ込める抑圧的な言葉であると捉える
人生で迷っている人は世の中のふつうの説明に納得がいってないはずだから、そういう言葉で励ますのは避けるべきだと考える
むしろそれをチャンスとしてその人なりの言葉を発明すべきである、というのが言語化左派的な価値観である
が、相手がふつうに常識的な励ましを求める人だった場合は冷淡な人に見られてしまう
言語化左派の人も過去の偉人の名言を重視することはあるが、「最初に言い出した人が偉いだけで、それを引用するのは別にえらくない」と考える
あくまで参考にすべきなのは最初にいい出した人の思考過程であって、フレーズそのものには実は価値がない
ただし、既存の名言のダメなところをひねって言い直したようなものは好きだったりする
良い言語化をしている人に対して「それって要するに${よくあるフレーズ}ってことでしょ」という反応をする人を見ると、言語化左派の人は「既得権による反発」を見たような気持ちになってしまう
そもそも最近の「言語化」という言葉の流行はここでいう「言語化左派」的な価値観に由来すると考えられる
「なぜ『説明が上手』という言い方ではだめなのか?それは、言語化とは本質的に新しい説明を発明することだから…」
#インターネット で多様な価値観の発信を目にするようになったということは、納得行かない他人の説明を目にする機会が増えたということでもある したがって自分の言葉で喋れることを重視したり、それができる人に憧れる風潮ができたと考えられる