現在が21世紀であることのたまたまさ
若い頃、私は自分がたまたま1990年代に生まれて2000年代に小中高の時代を過ごしたからという理由で、2000年代の日本の #音楽 が半ば強制的に思い出の曲になるなんて理不尽すぎるんじゃないかとぼんやり思ったような気がする。 (別に2000年代の音楽を特に貶したいとかではない。自分に本当にあってる音楽はたとえば1980年代の知らない地域のロックとかかもしれないのに、という方が近い。)
実際には自分の音楽的原点は1990年代のJ-POPなので、小学生が聞くにしてはちょっと古いが生まれた時代を全然外してない、あまりにふつうのところに落ち着いたようなところはあるが。
一口に「流行りに乗りたくない」というとき、そこには「他のやつに差をつけたい」という気持ちがなかったとは言わないが、私の場合ただそれだけではなかったとも思っている。
「自分が生まれた時代がたまたま"ここ"であることに抵抗する気持ち」があったような気がするのだ。
これはたまたま同じ地域に生まれた縁よりも、そういうのと無関係に「選んで仲良くなった関係」のほうがえらいと思ってしまう気持ちの時間バージョンなのだと思う。
私は地縁を受け入れるのと同様、生まれた時代というものの偶然性を受け入れるのにひどく時間がかかっていた。
(自分は今でも「同世代性」というものへの関心が薄いと思う。よくサブスクの影響によって今の音楽かどうかを意識しなくなったみたいな若者文化論を見ることがあるが、正直私はその方が良いと圧倒的に思ってる方だった。)
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私は小学校3年生ぐらいの頃に西暦2000年を迎えた。
このとき、私は「今が西暦2000年ちょうどであること」にものすごく驚いていた覚えがある(子どもなりの感覚で)。
人によっては「暦なんてものは人間が勝手に作った座標の取り方なのだから、そこの偶然性に驚いてもなんの意味もない」と言うかもしれない。「水がたまたま0度で凍ること」に驚くのと同じぐらい愚かな発想というわけだ。
しかし、そうではない。この問題は別に2000年ちょうどでなくとも、常に問題である。
なぜ現在時刻がたまたま2024年10月20日 15:36であり、それ以外の時間ではありえないのかというのもまったく同じように不思議であるはずだ。なぜ「今」はたとえば西暦1311年3月4日の10:05ではないのか、と。
ポイントは、「今が2024年であることへの驚き」は「今が2000年ちょうどであることへの驚き」に反論するものではない(2000年だけが特別なわけじゃないんだと反論しているわけではない)ということだ。
たとえば2003年とかに生まれた人だって、自分が青春を過ごしたのがたまたま2010年代であることについて理不尽すぎるんじゃないかと思うことは全く同様にできるはずだ。
それは、「一般に2003年に生まれた人はこういう理由で理不尽だ」という話とはぜんぜん違う。「現在時刻が21世紀であること」そして「2003年に生まれた〇〇さんがたまたま私であったこと」に対する理由のなさへの驚きなのだ。
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私は永井均『〈子ども〉のための哲学』を大学生ぐらいの頃に読み、それなりに書かれていることを素直に読めたと思っている。が、永井先生が持っていたような〈ぼく〉の問題を私は子どもの頃に抱いていなかったと思う。
しかしあとの方で〈今〉と〈ぼく〉の問題は論理的な構造が同じというような記述を見たときに「あっ」と思ったので、私はむしろ前者を手がかりに後者の話を理解したのだなと思った。