上向きの謙虚さと下向きの謙虚さ
最近ようやく自覚したのだが、自分は #仕事 のやりがいが「自分よりすごい何か(あるいは誰か)に貢献したい」という方向であるらしい 言い方を変えると「自分より面白いことを思いつける人に対して、何らかの技術を提供すれば、自ずと面白い仕事ができる(結果的に良いものができる)」という世界観がベースであるらしい
これは仕事仲間に対してもそうだし、顧客に対してもそうだ
一般消費者に何かを提供するよりは、何かものを作ってる人に価値を提供するほうが圧倒的に楽しい
これは裏を返すと「自分より弱い人を助けたい」とか「ふつうの人の役に立ちたい」という気持ちがあまりないということでもある
し、「面白いアイデアか高い技術のいずれかを持たない人とはできるだけ働きたくない」という気持ちを持っているということでもある
私は学生時代の就活では「同世代の学生とのチームプレイを必要とするインターン」をできるだけ避けていた
なぜなら「ハズレのチームメイト」を引きたくなかったからだ
自分よりレベルが「上」の人間と働くのを体験するのでなければ行く意味がない(そんなものは学校でもできる)
こう書くとひどいやつっぽいので考えないようにしていたが、だんだんこれを正直に認めるようになった
「自分よりすごい人に貢献したい」となぜ思うのかというと、世の中には自分よりすごい人がいると知っており、それに比べて自分はまだまだと思うからだ
これは一見「謙虚さ」と表現できそうに思える
少なくとも当人の自認はそうなりがちである
一方、世の中で人に「謙虚さ」を求める人が意図しているのはこの意味の「謙虚さ」ではないように思われる
ふつう倫理的に「謙虚であれ」という人は「特権を自覚して弱い人を助けろ」という意図でそれを発することが多いであろう
ということはつまり、世間で言われる「謙虚さ」には実は2つの種類があり、それらがすれ違っているということだ
上向きの謙虚さと、下向きの謙虚さというものがある
自分は上向きにしか持っておらず、下向きのそれを持っていない
これは悪く言えば、自分の持っているものに無自覚であるということ
実際には前者は謙虚さと呼ぶべきではなく、劣等感を道徳的に粉飾しただけのものかもしれない
なぜ自覚をしないのかというと、自覚を持つということはある種の人を自分より「下」と認めて付き合わなければならないということで、それは居心地が悪いからだ
建前上人間は平等であることにしておいたほうが様々なことが楽になるので、そういうことにしておきたくなる、ということだ
上下関係などなく、対等な人間同士の謙虚さだけがあることにしといた方がラクなのでそう言ってるみたいな人は実際によく見る