フィクションに対する倫理的態度
#フィクション に対する #倫理 的態度みたいな話になると、最終的により深い葛藤を持っていてそれを巧く表現できる奴が一番えらいみたいな身も蓋もない気持ちになってしまう。 #コンテンツ を愛する人が #政治的正しさ のような思想に理解を示しつつ、間で苦しんでいる様子は美しいと思うし、自分もそうありたいと思う。 こういう話でどちらか一方に肩入れしてしまう態度はいずれも醜いし、両方理解した上で苦しんでいる人間が一番偉いな〜とつい考えてしまう(切実さに欠けた態度かもしれないが)。
東京オリンピックの開会式で担当者2人が降ろされたときに、彼らへの愛ゆえにファンとしての責任(?)を感じて気持ちの入った長文を書く人が現れたりしたが、僕はあーいう文章が好きだ(小山田圭吾については作品の内容が批判を受けたわけではないので、ここでの例としては適切ではないかもしれないが)。
こういうタイミングでこういうことを言える人を増やすことこそが、政治的正しさの思想が提出しうる唯一の #美 であるとすら言えないだろうか。善悪とはまた別のものとして、である。