落語は現代に江戸を出現させるメディア
談志が言うように、この 「江戸の風」、つまり江戸から現在まで地続きであるはずだと思われている私たちの「生き方」 もっと言えば、 庶民が培ってきた現実との付き合い方 (生活感覚) が感じられなければ落語は落語でなくなる。 漫才 漫談、 コント何でもありの現代のお笑い状況で、 それでも紋付羽織で座布団の上に座るのは、落語に「江戸の風」 を吹かせるため以外の理由はない。 その意味で言えば、 他ジャンルとの共演、 高座の上での飛んだり跳ねたりの見世物は、その実験精神を云々するより以前に、 談志に言わせれば「"風〟が違う」 のだ。反戦後論 浜崎洋介 • 254ページ そうなのだけど「地続き」であるはずの「江戸」は、「現代」とは地続きではまったくない。江戸を江戸のままやると現代では受け入れられない。『不適切にもほどがある!』はなんなら昭和と令和ですら断絶があるんだから。 江戸をそのままやっても江戸を現代に持ってこれない。
江戸時代の言葉や知識、常識を現代人が知らないから
江戸時代の倫理道徳と現代のそれは異なるから
そこでたとえば、江戸のでたらめな部分をデフォルメして提示したり、江戸のダメな部分は削り取ってから提示したりする。志ん朝は「実際に江戸を体現して現代を立って歩いてた」感じ......。明烏での志ん朝の「現代への江戸の持っていき方」を参照。