花の色は移りにけりな徒に我が身世にふるながめせしまに
https://gyazo.com/b8b656cc02ce0d24ea00c5f94aa20942
これまで百人一首のうち三首を紹介してきたが、どれも男性(うち二人は天皇)の歌だった。そこで気になるのは、百人一首、その男女比は一体どれくらいなのかってことで、調べてみると男性は79人、女性は21人。藤原定家、つまり男が選んでいるのにそれでも21人も入ってるのだからそれほど才能の多い詠み手も多かったという気もするし、男も女も和歌を詠む、なんなら和歌とはラブレターって時代にあって、女性はたったの2割しかいないってのはいかがなものかという気もする。定家とかもうどうでもいいので、もう一度あらためて百首。選び直してみるのもおもしろいんじゃないか。 男女の数、人数比については上述した通りなのだが、作品の質、どのようなテーマが選ばれているのか。これも気になる。というわけで、まずは小野小町のこの歌だ。小野小町と言えば、これまたまったく人物や歴史に詳しくない自分でも知っている「絶世の美女」である。 「花の色」とは文字通り「色」ということでもあるけれど、「色即是空」などと言うときの「色」、つまり「この世のもの」、形而下存在、「かたち」みたいな意味かもしれない。花も「花」と言えば桜ってことらしいけど、果たしてどうなのか。そこらへんの解説はあんまりよく知らない。「移りに」の移りは「fade」ってことでしょう。「色褪せていく」という意味でもあるし「しおれてく」って意味でもある。「徒に」はin vain.....って、自分はロックを聞いて育ってきたので、日本語を日本語で理解するよりも英語に直して捉えたほうがビビッとくるしわかりやすい。RoxetteにFading Like a Flowerって曲があるけれど、花がしおれてしまう=私もその花みたいにしおれてしまうっていうあんな感じ。 「ながめ」が「長雨」と「眺め」の掛け言葉になっており、「ふる」が「降る」と「経る」の掛け言葉だから、「花も長雨がふるので虚しく色褪せてしまったな。私もそんな花のように、あれこれ物を思ううちに年をとってしまいました」といった意味だろう。
詠み手が「絶世の美女」であることは周知のことだから、そんな美女が「花の色」の虚しさについて詠んだ歌。そう解釈されていて、だから「この世のことは虚しい」という否定的なトーンで受け取られることがどうも多そうだけれど、でも、本当にそうか。ここには「外見の経年劣化」など別に何とも思ってないかのような、そんなもの小野小町の本質ではないような、それでもダラダラと続いてしまう「変わらない個」を自分は強く感じる。確かに「徒に」=むなしく歳を重ね老いてきたのかもしれない。でも、その間ずっとこの人は、世界を、男女の様々な親密な関係性を「ながめ」続けてきたのである。
世間は私のことを美女と言う。花を愛でる。だが「花」がなんぼのものだろうか。あんなもんすぐに散る、色褪せるものなのでしかない。そんなことよりもネチネチとしつこく、ダラダラとずっと続く雨のほうが永続性がある。こちらこそが「それでも変わらないあたし」なのだって見方だってできる。
花だ花だと讃えられてきた人間が、本当の「花」について考えていないわけがない。確かに自分は「花」を失ってしまった。だけれど「そのこと」についてだって、これまでずっと「ながめ」てきたんだ。そうした強い自負が感じられるのだけどどうだろうか。