田舎に必要なのはサードプレイスではなくアジール
moriteppei.iconコミュニティづくりでしばしば言及されるサードプレイス論。その必読書、オーベンバーグによると、サードプレイスの機能は「人をくっつけすぎずにつなげる」点にある。自宅に人を呼べばパーティはできる。欧米なら特にそう。ただ、それだとくっつきすぎてしまう。https://x.com/moriteppei/status/843423745104531456
あまり気が合わない人がいても「今度もパーティに誘ってね」となるし、一度人とつながると好きなときに「オフ」できない。だから「行けば誰かに会えるけど、行かなきゃ1人にだってなれる」サードプレイスが重要なのだり
ところが、田舎はメンバーが少ないため、サードプレイスに行くと「つながりすぎて」しまう。「最近顔出さへんな」ってすぐ知られるし、サードプレイスに顔出さない=引きこもり扱い。
田舎に必要なのは、サードプレイスなのではなくて、アジールなんですよ。自宅以外の、住み心地のよい、避難所。
それにサードプレイスって、普段の身分関係や上下関係忘れられるところであるべき、「会話のおもしろさだけがメンバー評価の判断基準」の場であるべきです。ところが田舎の「サードプレイス」は日常の人間関係、権力関係を持ち越してしまう。サードプレイスが息苦しくなるだけなんですよ。
それが「うちの田舎にはサードプレイスがない」「みんなが集える場所を」ってつくってくと、「顔出さなきゃいけない場所が増える」だけなので、どんどん息苦しくなっていく
それが「うちの田舎にはサードプレイスがない」「みんなが集える場所を」ってつくってくと、「顔出さなきゃいけない場所が増える」だけなので、どんどん息苦しくなっていく
サードプレイスに行っても、村の噂話になっちゃって、その情報の密度がどんどん濃くなってしまい、だんだん嫌になってくる。噂話ができないようなところでは「何を誰にどこまでどのように」話すか常に考えなきゃいけない。つまり、サードプレイスになってない。
しかも現代ではFacebookがあるため、一度その人と「接続」しちゃうと、付き合いをオフするわけにもいかず。中途半端なサードプレイスがあると、そこに行くと、どんどん人間関係が「こってり」してきてしまう。
田舎のコミュニティでは「つなぐ」より「つながない」が大事なんですよね。「つながない」というつなぎかたをいかにして実現するか。
コミュニケーションが上手くいってないと感じるとき、人はすぐコミュニケーションの密度や頻度を高めるのが解決策だと思いこむ。でも、よく考えるとコミュニケーションの密度や頻度が高すぎて問題が発生してることだって非常に多い。「やりとりしない」で解決するコミュニケーションもある。
どんだけやり取りしても理解しあえない人だっているし、そういう人がいる、つまり他者がいると認めることが、相手を思いやることだったりする。そこを無理にコミュニケーションの流量を増やして解決しようとすることほど傲慢なこともない。
地方創生ではよくサードプレイスをつくろうとする
カフェ
コミュニティスペース
マイクロライブラリーなど
でも田舎でサードプレイスをつくると息苦しくなる
結局どこにいっても同じ人しかいないから/だけがいるから
「誰でも」っていうと「どこにでも」顔出すやつが来る問題
田舎のベタ一面の人間関係の「外」が田舎には必要
既存の権力関係の外=アジール