瀧の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ
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大納言公任とは藤原公任のこと。藤原定頼の父である。百人一首。もう藤原ばかりである。「藤原」とは表記せず、「大納言」「中納言」などと書いてあるので誤魔化されそうになるが、調べてみると百人一首に占める藤原率(なんじゃそりゃ)は33人。つまり33%にも及ぶ。偏りすぎだろう、独占しすぎだろうと思うのだが、選者からして藤原定家で藤原姓なのだから仕方ない。あちこちバランスよく入れないと「こっちの藤原だけなぜ外した」と言われかねないし、そもそも藤原氏の栄華の時代がそれだけ長かったのだとも言える。 藤原公任のこの歌は、言葉としては、現代人にとって理解が難しい箇所は極めて少ない。「瀧の水の流れる音はしなくなって長いけれども、瀧の名前は流れて今でも聞こえてくるんだなあ」といったところだろう。藤原氏の時代も終わり、藤原公任という人間も死んで久しい。それでもその歌は現代にまで伝えられていて.....と考えれば、瀧を「擬人化」というか、人を「瀧化」して詠んだ歌だという解釈も、まあ誰だってパッと思い浮かぶし、それは間違ってはいないだろう。ただそれは割とよくある感興というか、つづめて見れば「人が死んでも業績は残る」程度の話で終わってしまう。
この歌の真のおもしろさは、そうした感興を単にメッセージや主張、発見としてではなく、「音」、聴覚に合わせて表現しているところにある。「瀧の音は」と詠まれれば、その音が私たちの頭には浮かんできてしまう。イメージしてしまう。それが「たえて久しく」となれば、今度は長い静寂、無音が聞こえてくる。後世まで名が聞こえるそれほどの瀧の音はさぞかし大きいだろう。そんな大きな音がずっと鳴り響いたあとの「たえて久しい」が「聞こえる」のは、和歌、言葉があるからこそ可能なのだ。藤原公任の歌は、実際には人間には絶対に聞くことができない幾年月ものタイムスパンの「瀧の音」を、「無音」を、たったの三十一文字、ten secondsで聞かせてしまう。
「名こそ流れてなほ聞こえ」るような瀧の音はさぞかし大きいだろうし、またその「瀧の音」が「たえ」るまでの時間は相当に長いだろうし、それからさらに「久しく」なるとはどれだけの悠久の時となるのだろうか。そんな長さの時間が経ってもそれでも「なほ聞こえ」るほどの瀧の「名」ということは、その瀧の音はさぞかし大きく......と、実はこの歌にはこのようなロジック上のループ構造があり、それが「瀧の音」と「名」をどちらも強めあっている。
「瀧の音は」と字余りになっているが、ここの「は」がポイントだろう。「瀧の音たえて久しく」でも「通じる」はずである。けれどもここは字余りにしても「は」が入ることで、「は」と「こそ」の対応関係が成り立ち、上の句からの下の句のクレッシェンドの「こそ」が生きる。 ループ構造。つまり終わりのない無限である。瀧の音だけ入ったA面と無音のB面からなるレコードを何度も何度も繰り返し、永久に聞く一首。だからこそ、この歌も詠み手が亡くなってひさしくとも、未来永劫残り続けるマスターピースなのだ。moriteppei.icon20240115