来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
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百人一首を選んだのは誰かというと藤原定家なのだが、そうなるとここで一つ気になるのは、じゃあ、その定家はどんな歌は詠んだんだ? 定家自身の歌は百人一首に入ってるのか?ということだ。入ってないなら「百人一首に選ばれるほどの歌も詠んでない人間が選んでる百人一首なんて大したことねえな」だし、入っているなら「自分で自分の歌を入れるとか大丈夫ですかね、それって客観視できてるんですかね」となる。 審査員がしっかりしてるからその賞には価値があるのだけど、それだけしっかりしてる賞を審査するような審査員はもちろんその賞をもらってるんだよな?という。まあ、ナイツの塙もM1優勝してないのにM1の審査員してるし、島田雅彦なんて芥川賞に確か6回くらい落選してたはずだが、今は芥川賞の審査員である。どうでもいいか。 結局、藤原定家はどうしたかというと、自身の歌を百人一首に選出してる。自分で自分を「百人」に選出しても文句言われないどころか、逆に「選に入ってないとおかしい」と他人にも思わせるほどの歌の腕前とは? 納得させるだけの作品として選ばれた作品とは? 興味はつきないのだが、定家が選んだ定家の歌がこれである。
松帆の浦とは淡路島の北端にある海岸のこと。もちろんこれは掛け言葉でもあって松帆と「待つ」がかかってる。掛け言葉というとかっこはいいが、要はダジャレ、言葉遊び。ダブルミーニングってことで、ダブルミーニングだからってそれだけで威張るのもなんかダサい。言葉を上手くかけたところで、かけただけでは必ずしもその歌が優れていることにはならない。 けれどもこの歌はやはりすごいとしか言いようがない。「来ぬ人」という否定系。それを「待つ」という積極性。どちらも「継続」の綱引きで、その真ん中に「松帆の浦の夕なぎ」が置かれている。夕なぎとは「夕方風が静まった一瞬」のことだから、「待つ」と「来ぬ」の間の静止状態を見事に表していて、それが「夕」の「松帆の浦」というビジュアルと見事に重なってる。そして、この夕なぎというのは「静止」状態なのだが、「夕」とついてる通り、陽がくれてしまえばすぐ終わる、つまりはダイナミズムそのものでもある。
「すぐ」終わるのだけれど「待つ」身になれば永遠のように長くも感じられるし、終わってしまったら「来ぬ」になる。早く来てほしい=待つのが終わってほしいという気持ちと、夕凪よ終わらないでくれ=来ないと確定してしまうからという「永続を願う」気持ち。それがものの見事に松帆の浦の一瞬の情景に凝縮されている。
But I don't need no friends / As long as I gaze on Waterloo sunset / I am in paradise
だけど友達なんて要らない。ウォータールーの夕日を眺めてさえいれば ぼくはパラダイスにいる
これは「友達がいらない」くらい美しい夕日とも言えるし、夕日がどれだけ美しかろうが友達にはかえられないとも言っている。友達が要らなくなるくらい美しい夕日でもすぐに沈んでしまう。だからこそ美しいのである。定家の歌はまさにこのキンクスの曲と同じような静止とダイナミズム、一瞬と永遠の矛盾を「来ない人を待つ」という心象として詠んでいるのである。
そこに焼くや藻塩の、と続く。藻塩とは海水を焼いてつくる塩のことなのだが、その焼かれる藻塩のように身を焦がして「来ぬ人」を待っているというのが歌の意だろう。夕方の松帆の浦の美しい景色。凪、つまり「さっきまであった風がなくなった」という触覚。そしてその景色には波の静かな、それでいてしっかりとした1/fゆらぎの音だけがありそうだ。そこに焼かれる藻塩という熱と味覚が重ね合わされて......たったた31文字の中の情報量、浮かぶ情景、感覚刺激がとんでもないことになっている。藻塩という「土」、夕凪という「風」、松帆の浦という「水」、そして「焼くや」の炎。その一瞬の一情景に、四元素、世界のすべてがそこにあるのだ。
文句なしの一首。四国に住んでいる自分。淡路島はすぐ近くだ。松帆の浦まで。ウォータールーと同じサンセットを見にいこう。待つ相手はいない。いないから来ない。来ないから待てる。その夕日が沈むまで。moriteppei.icon(20240105)