星のせいにして
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状況と発言、言動のミスマッチによって笑いや真剣さを伝えるのが大変上手い作家。たとえば以下の箇所。1日中看護をして、家に帰ろうとしたところ、語り手=ジュリア・パワーはリン医師から死亡した妊婦の解剖を手伝ってほしいと持ちかけられる。日中は非科学的な医師の処方や診察に悩まされるのに。
正真正銘の科学者になぜか今会う私の悪運。今ごろベッドに入っててもおかしくないのに。でも、リン医師の熱心さに心が動かされた。しかも、この人は逮捕されるかもしれない闇の中にいるのに。もし、噂が本当であるならば。彼女自身の苦悩の海から浮かび上がり、公共の善のためにこんなに一生懸命になれるのはどうしてだろう?星のせいにしてエマ・ドナヒューp.173 次の「生きていることへの感謝」もいい。こういうところがドナヒューらしい皮肉で、ハードな状況、暮らし、描写の中にあって、思わずクスリと、なんだかおかしい気分にさせられる。
体中の筋肉の痛みをひしひしと感じるのは、死の空白と対極にあるもの。痛む足、疼く背中、沁みる指先があって、それを感じられることに感謝しなきゃ。星のせいにしてエマ・ドナヒューp.187 全体的に大変素晴らしいできで、読んでいて常時涙が止まらなかったし(電車の中で読んでて嗚咽)、本作はその悲惨な状況設定と描写(世界大戦中に大流行のインフルエンザで人が大量に死ぬ中、インフルエンザに罹患した妊婦が大量にかつぎこまれてくる産科を看護師である語り手は一人だけで物資も設備も不足する中、回さなくちゃいけない、ワンミスで人が死に、ミスしなくても死ぬようなシチュエーションの連続......)にもかかわらず最上級のエンタメ作品になっている。
賛辞を惜しまないが(絶対読んで!)、ただマスクの扱いについては結構引っかかる。作中、ほとんどブラックジャック扱いなリン医師(医学的にこの人の処置や判断が常に「正解」とされる)がいるのだが、マスクに対してこのように言う。 政治の話はもうしたくなかった。だから尋ねた。先生がこのインフルエンザにかかられた時、何か変わった症状はありましたか? 目線を落としたまま彼女が言う。まだ、かかってない。
そんなバカな。肘まで病原菌にまみれているというのに。悲鳴のような私の声。マスクくらいされないんですか?
興味深いことに、マスクの有効性を示す証拠はほとんどないんだよ。手をよく洗って、ブランデーでうがいして、あとは神のご意思のまま。リトラクター、ください。星のせいにしてエマ・ドナヒューpp.179,180 当時のマスクは効果が証明されていなかったというリアルな史実の反映かもしれないし、リン医師がそのように信じていたというリアルな史実の反映かもしれない(リン医師のみ本作では実在の人物である。キャスリーン・リン参照)。マスクをしなかったせいで作中人物がインフルエンザに感染したかのような描写もあるので著者、もしくは語り手=ジュリア・パワーの認識とは一致していないかもしれない。また、本作が出版されたのは、本格的なコロナ禍の直前であり、まだ認識が甘かったというだけかもしれないが、ここはすごく引っかかる。本作のテーマでもあり、ドナヒューのテーマでもあるが「政治的でないことなんてない」。だとしたら、こうしたちょっとしたマスクの描写についても著者、もしくは訳者から、できればフォローが欲しいところだ。マスクするかしないかで感染率が変わり、それによって人が死ぬ。そんなパンデミック時代ならなおさらで、マスクしないで人が死ぬのは「星のせい」なんかじゃないからだ。 でも、世界中で今、戦争をしていない場所なんてあるの? お互いにうつし合いっこしたんでしょう? なすすべもなくこの病気が流行っていくのと同じように。距離を取るなんて無理。隠れることができる場所は、島一つ残されていない。貧困と同じように、おそらく、戦争なしに私たちは存在することができないのだろう。この世界は、骨男[ボーンマン]の統治下で永遠に渦巻く騒音と恐怖。星のせいにしてエマ・ドナヒューp.208 正しいとは何か。聖なる証でも描かれていたが「正しくないことであっても時と場合によってはしなければならない。それが正しいことである」というのがドナヒューのモチーフの一つだ。「政治的でないものなど存在しない」のだが、それはまた時と場合によっては「政治的であること」を捨てることが正しいことであり、政治的な行動にもなりうるということだ。 本当のことを言えば、今、あの医師を失うわけにはいかない。絶対、今はダメ。この建物に産科医が他に一人もいないんだから。もし彼らが彼女を逮捕してしまったーー投獄かイングランドにまた送るのか知らないけどーーメアリー・オーラヒリーはどうなってしまうの 私の患者が無事でいることが第一優先。政治は二の次でいい。星のせいにしてエマ・ドナヒューp.232 ネタバレ配慮で書けないが『聖なる証』でも、通常であれば「倫理的にやってはいけないこと」をするべきかどうか?という問いかけが出てくる。問いかけが出てくるのだが、本作でもそうだが、ドナヒュー作品の語り手は、逡巡したり苦悩したりしない。とっとと行動に移すのが特徴で、なぜなら選択肢がないから!時間がないから! 他の選択肢も正しかったかもしれないのでは?ではなく「正しさにはタイミングがある」というのもドナヒュー読解の大事なポイントだったりする。
世界大戦中の、パンデミック中の、他のスタッフ全員インフルエンザでダウン中という「トリプル役満」下でのワンオペ産科。しかも当時の「看護婦」は(訳者は適切にもここで「看護師」ではなく「看護婦」と訳している)自分で薬剤一つ処方できない、そういう意味では徹底して無力な存在でしかない。 そんな一言で言ってしまえば絶望としか言いようがない状況なのだが、なぜか本作を読んでいるとすーっと自分の心が晴れてきて、落ち着いていくのが感じられる。人はバタバタと倒れ、次から次へと致命的なトラブルが発生し、血と汗と糞尿と薬剤の臭いが読者の鼻をついてくる。そんな描写の連続なのだが、それなのに、というかそれだからこそ「落ち着く」「安心できる」感覚に包まれるのは「忙しくて絶望してる暇すらない」からだ。ボブ・ディランの歌じゃあないが、忙しいのは「いいこと」でもある。 May your hands always be busy
May your feet always be swift
いつもやることがありますように
いつも行く場所がありますように
デイル・カーネギーの道は開けるだったか。子どもを亡くした人だったかが講演活動だったかなんだかをして(すべてうろ覚え)忙しくすることで悲しみを人生から締め出す例が紹介されていた。やるべきことをやるべきときにやる。たったそれだけで人生は悩む暇すら、落ち込む時間すら与えてくれなかったりする。 私はそわそわしながら、そこにとどまる。あの......ヴァルカー式をもっと早く試みるべきだったでしょうか? そうしたら、彼女のお産があんなに長引かず、ショックを起こすこともありませんでしたよね?
リン医師は肩をすくめる。そうとも言えないよね、もし、彼女の準備ができてなかったら同じことだし。とにかく思い悩んだり後悔したりして、時間を無駄にするのはやめよう。特に、パンデミックの最中はさ。 星のせいにしてエマ・ドナヒューp.254 本書を読んでいる間は、その見事な描写によって目の前に浮かぶ状況から文字通り「目が離せない」。それは、その時間は、そのまま現実世界から目を逸らし苦悩を忘れさっている時間でもある。だから自分はこれを「極上のエンタメ」と言っているわけだが、他方で、単に現実から目を逸らさせてくれる安楽提供しか本書は行ってないわけじゃなくて、むしろ逆で、私たちは政治の話からは絶対に逃げられないという真実を容赦なく突きつけてくる。
涙が込み上げる。私は言う。医師が銃を手に取るなんて、私には理解できません。およそ五百人が死んだんです。
気を害した様子もなく、ただ彼女は私を見つめる。そうは言うけどねーーみんな結局死ぬんだよ。銃弾に倒れなくても。貧しさに殺される。この神に見捨てられた国で行われてきた悪政に次ぐ悪政、これはある意味、大量殺戮だ。ただ突っ立って傍観していたら、全ての人の手が汚れてしまう。
頭がぐるぐるする。私は口ごもる。政治の話をしている時間はありません。 私は唾を飲み込む。病室に戻らなくては。
戦争もあった。パンデミックもあった。たくさんの人が死んだ。それから百年経った。人事を尽くして天命を待つ。私たちは今しなければならないことを今するしかないし、今何をするべきかは状況によって刻一刻と変化する。でもね、悩んでる時間なんてないんだよ。やることはやってさ。あとは......「星のせいに」してしまおう。 追記:原文はカギカッコが一切ないのだそう。だけど、ブライディ・スウィーニー、ジュリア・パワー、キャスリーン・リン、それぞれのキャラクターを自然にわかりやすく、魅力的な訳出がとてもよかった
ジュリア・「パワー」だの、「オナー・ホワイト」(名誉ある、潔白な?)だの、登場人物の名前に意味を持たせるのもドナヒューの作風で、それは『聖なる証』でも実践されていた(主人公の名前がリブ・ライト。「正しく生きろ」)。肉欲棒太郎(青木雄二ナニワ金融道)みたいなもんですね。 moriteppei.icon
原作がめっちゃくちゃおもしろかったので、ネトフリのドラマ版を見たら、信じられないくらいおもしろくないし、すべての良さを殺してるので、脚本誰だ!とキレ気味にクレジット見たら、ドナヒュー本人も絡んでた。こんなこともあるのか。