意見が完璧に一致する友人なんていない問題
意見が完璧に一致することはないという 「問題」にどう対処すべきだろうか? 簡単である。 人が間違っていても気にしないことだ。 とりわけ、 間違っているのが友人ならばなおさらだ。 友人が何か間違ったことを言ったとしても、それを訂正したり反論したくなる気持ちをぐっと抑えて、 放っておけばよいのである。 (ある問題について、自分と相手の両方が部分的に間違っているということはありうる。 なので、 「間違っていても気にしない」という言葉の真意は、もっと深くかつ重要だ。 相手が現実について誤った見解を抱いているという確信をあなたが持っているのならともかく、単にそう思っただけで、 人間関係を損ねてしまうのは馬鹿げたことだろう)話が通じない相手と話をする方法 ピーター・ボゴシアン ジェームズ・リンゼイ ・ 位置 1987
意見の不一致は、 道徳についての相違であったとしても、 道徳上の失敗であるとは限らない。 人が道徳にまつわる考えを持つ〔に至る] 理由は様々で、文化や個人の経験から無知まで、多岐にわたる。 もし誰かが推論によって誤った道徳観を持つに至ってしまったとしても、だからといってその人が悪人になるわけではない。ただ単に、その人の推論が誤っていたというだけだ原注 9。話が通じない相手と話をする方法 ピーター・ボゴシアン ジェームズ・リンゼイ ・位置2001
ある語が道徳的なニュアンスを帯びている場合、 それを用いるパートナーは自分の考えの正しさを信じこんでいることが多々ある。 これは、 そのような考えをすることでよりよい人間になれると思っているからだ。 つまり、善い人間にしてくれるような考えをまず信じて、 そこからその考えを裏付ける証拠を探しにいく、というふうに逆行してしまっているわけだ。 (つまり、 道徳心が理性を上書きしてしまっている。) 例えば、 道徳の問題についての推論は、 しばしばこの 〔悪い〕 パターンに落ち込んでしまう。 ジョンは善良な人々は X と考えるのだと考えている。 善良な人は一般に X と考える、 とジョンは考えている。 自分は善良な人間だ、 とジョンは考えている。 したがって自分は Xだと考えるべきだ、とジョンは考えている。 ジョンはそれから、 X を裏付けてくれるような証拠を探して、結果として Xだと考えることになりがちである。 それでもあくまで、 彼は自分が見つけた証拠にもとづいて Xだと考えているのである原注 17。話が通じない相手と話をする方法 ピーター・ボゴシアン ジェームズ・リンゼイ・位置1121