忘らるる身をば思わず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
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右近は中納言朝忠の彼女にして権中納言敦忠の元カノ。この時代の人間、百人一首に選ばれるようなやつはだいたいみんなこんな人たち、どなたもみなさま色好み、「恋多き」と形容されてばかりなのだが、それもそのはず。百人一首で一番多いテーマは恋。なんと43首もあると言う。恋の歌が多い、恋多きってだけならいいのだが、同じ百人一首に仲良く好きピや元カレが並んでいる様はちょっとなまなましくもある。百人一首、言うても肉体関係図鑑のようである。 この歌は右近が元カレの権中納言敦忠を想定して詠んだ歌だそう。「身」とは自分、「人」とは恋愛の相手、つまりここでは敦忠のこと。「忘れられた我が身はどうとも思いません。けれども仲を誓ったあの人の命が惜しいのです」といった意。言葉の意味はそんなに難しくないのだが、これまたスッキリとキレのあるダブルミーニングである。 一つは「別れたけれど好きな人」「好きじゃなくなっても情を持ってしまってる人」が亡くなるのは「惜しい」、この期に及んで自分ではなく、相手の身が案じられるという健気な女の心を詠んだという解釈だ。が、んなわけないよなあと思うのは、それにしちゃあまりにも言葉が重いし不吉だからである。
確かに気持ちとしては「あの人の命が惜しいのです」なのかもしれないが、この歌で歌われた内容が伝えている事実だけを列挙すると、
私と敦忠は神に「ずっと一緒だよ❤️」とその仲を誓った間柄でした
しかし敦忠は私のことを忘れて今、おそらく別の女を懸想しています
ということであり、これは要するに告発である。そのことを考えるとこの歌は「クソオスが神罰降ってはよ死ねマジで」と言っていることになる。「忘らるる身をば思はず」もそうなると「どうでもいい(あんたなんかに)忘れられても」と言っているのかもしれない。
さて、どちらの解釈を取るべきか。自分はこれは「どちらの解釈とも取れる」という解釈をした。
本音は2番目の解釈なのだろう。「命が惜しい」と死を詠みこんでるのがあまりにも重い。ウェットな情念だとしか言いようがないから。けれども平安時代である。「どうでもいい忘れられてもクソオスが神罰降ってはよ死ねマジで」と詠んだらアカンのである。それにそんなことを言ったら「自分が振られただけなのにひっどいこと言うなあ」「そんな女だからやっぱり振られたんかいな」にしかならない。
でも「忘れられても私のことは何も思いません。一度は神にその仲を誓ったあなたの命が亡くなってしまうことが惜しいのです」と読めるようにしておくと「健気だなあ」と思われるし、「なるほど、それくらいのダブルミーニングを歌に詠みこめるウィットがあるのか。魅力的な人だなあ」「そんな魅力的な人を振ったのかあ。振るくせに簡単に神にその仲を誓っちゃうのかあ。敦忠ってやべえな」になるのが人情なのである。
時系列はわからないけれど、敦忠は38歳で早逝する。ちなみに単なる偶然だが、百人一首では右近には「38番」が振られている......。敦忠は琵琶、その後つきあった中納言朝忠は笙の名手だったとのことで、右近、楽器ができる男、現代だったらバンドマンに弱かったのかもしれない。moriteppei.icon240223