心にもあらで憂世にながらへば戀しかるべき夜半の月かな
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嫌なことがあったときは死にたくなる。でもそれはあなただけじゃない。人間みんなそうなのだが、天皇だって人間だ。三條院のこの歌は、そんな人間としての天皇の「死にたい」を詠んだ一首だ。 「心にもあらで」は「望んでいない」の意。「ながらへば」はsurvive、生きながらえればという意味で、「戀しかるべき」の「べき」は推量の助動詞で「だろう」、「夜半」は夜中、真夜中のことを指す。したがってこの歌は「そんなこと望んでもいないが、もしこの辛い憂世を生きながらえることがあれば、恋しく思い出されるのだろうか、この真夜中の月が」といった意味になる。
百人一首、冒頭から「逢ひ」とか「逢ふ」とか出てくる歌がよくあり、そんなのを見ると「いきなりセックスの話かよ」と驚くが、ここでの「心にもあらで」はセックスどころかいきなり「生きるのを望んでない」「死にたいなあ」だ。これまたその初速度高い表現に驚く。 生きていたくない、つまり「もう死にたい」と詠んだ三條院だが、この一年後に死んでいる。不遇な人だったらしく、なんと25年も天皇即位を待ったと思ったら、今度はたったの6年で退位。藤原道長が自分の娘が産んだ後一条天皇を即位させたかったためだ。体も弱く、眼病を患っており、この歌を詠んだときーーそれは在位中、退位が決まったあとのことだったそうだがーーにはほとんど視力がなかったとも言われる。 そうした情報を踏まえれば歌の味わいもまた変わってくる。藤原道長の有名な歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる こともなしと思へば」にもある通り、「月」とは権力、実権、我が望みのような意味も込められている。道長には何一つ欠けたところのない「満月」が見えた。対して三條院が「目」にするのは「夜半の月」。真夜中ということはこれから朝に向かって、どんどん「見えなくなっていく」月でもある。 ましてや三條院には目の病があり、ほとんどものが見えなくなっている。病弱だったとか、不幸にも眼病がと考えてしまうが、藤原道長は退位を迫って無理矢理自分の孫を即位させるような強引な人間だったのだから、その「眼病」というのも果たして「不幸にも」「運なく」だったのかどうか。想像するだけで三條院でなくても死にたくなってくる。
「戀しかるべき」(未来を推量)と言っているということは、今はそのようにポジティブなこととして見えてないと想像できる。もうほとんど見えてない、これからどんどん見えなくなっていく「月」。その「見えなかった」ことですら「戀し」くなるのだろうかと言っているのだが、ニュアンスとしては「戀し」くならないんじゃないかという否定を強く感じる。
天皇と政権争いという特別なコンテキストから離れた鑑賞ももちろん可能。自殺未遂をした人の体験記などを読むと、その時の景色をよく覚えてる、なんてことが書かれていたりするが、それぞれにそれぞれの「夜半の月」があるのだろうなと思う。 百人一首にもし華やかな恋やセックス、美しい景色を詠んだ歌しかないのだとしたら、そんなものクソくらえだ。恋人のために薬草を摘むウキウキから死にたい夜の死にたい死にたみまで。だから素晴らしいのである。moriteppei.icon240302