弱者男性
https://gyazo.com/af016c4616d3e25e813f864063cc2214
「弱者男性」というのは社会的弱者と恋愛弱者を故意に混同させているのがタームとしてよくないが、それが目的で作られた用語なのだからどうしようもないのであった 女性差別を無効化する言説としての弱者男性論
「弱者男性」てそもそもが女性差別を指摘する言説を「男性だって弱者がいるんだ」というwhataboutismで無効化するためのタームだと理解してる
「弱者男性」に同乗する気が殆ど起こらない理由は、非常に多くの弱者男性自認者やその同調者がシスヘテロ健常日本人成人男性以外は「本当の弱者」の枠から排除しようとするし、もっと言えばそれに当てはまる人物でも例えばホームレスや生活保護受給者を「真の弱者」に含めようとしないからだ。
なので「弱者男性」論というのは極端な被害者意識と選民思想が悪魔合体したものだと自分は捉えている。
自分が「弱者男性」論がほぼ例外なくゴミだと断言しているのは、多くの「弱者男性」やその思想的賛同者が障害者や生活保護受給者を差別しているのを見てきたから。
もちろん以前から警戒はしていたが、これが決定打になって連中はネトウヨと同等と言っていいくらい邪悪な存在として認識するようになった。
間違った弱者男性論をただす
大筋みなさんが言ってることに同意するが、だとしたら、だからこそ、①既存の弱者男性論と②弱者男性とを区別し、①は否定しつつも②を擁護する言説を作っていかないとマズいだろう。
インターセクショナリティを考えれば「男性」だから強者だとは必ずしも言えなくて。だからこそ不可視化されているものを見ていくことは重要だし、そういうことをまともにやっていくことで、①のような弱者男性論の正当性を奪っていくべき。 女性にもいろいろある はよく聞くけど 男性にもいろいろあるのでは?ともなる
あと、なぜ①のような弱者男性論が出てくるのか。女を否定するために持ち出されているのが弱者男性論なのかもしれないが、なぜそこまでして女を否定しようとするのか。男性の苦しみを女性の否定としてしか語れない構造がそこにあるのではないか。
Seth.icon クソリベラル界隈、またろくに話も聞かずにクッソ荒い「解像度」と貧弱な想像力だけで勝手に色々決めつけて雑な括りでレッテル貼って偏見垂れ流してんのか。。。 お前らの言う「弱者男性」には、障害者も病人もひたすらいじめられてきた人間も社会から虫ケラのように扱われてきた人間も残酷としか言いようのないルッキズムに晒されてきた人間も貧困に喘いでる人間も含まれてんだけど、わかってんのか。Seth moriteppei.icon 弱者男性と(既存の)弱者男性論は違うってだけの話なのに、弱者男性という立論自体を疑ってる、とかやってしまう。結果、弱者男性が頼れる言論資源は(既存の)差別的な弱者男性論しかなくなり、既存の弱者男性論にある種の正当性を与えてしまう、ということを理解したらむしろ「弱者男性」を肯定するのは戦略的にも正しいんだけど、「戦略的」という発想もないのがリベラルだから……。 moriteppei.icon むしろゴミみたいな弱者男性論がなぜ発生してるかというと、男性が男性の辛さを語る言葉を奪われているからでは。今、多くの男性が経済的に苦しい。だけれどそれを言っても「男はマシ」とか言われてしまうなら、「女だって得してる」を言わざるを得なくなる。別に異性を否定せんでも自らの苦しさは語れる。そういう言論資源としての正しい弱者男性論をリベラルこそ構築していくべき。
あるべき弱者男性論はフェミニズムやクィアスタディーズと共闘すべき
経済的な弱者の他に「性的に」「恋愛上」弱者である人たちもいるのは間違いない。それについて「私的な領域のことだから」とか「個人のことだから個人でなんとかしてください」とその苦しさを否定するのはよくない。それこそ単なるマッチョイズムになりかねない。フェミニズムからのダブルバインド参照。 そうした意味での弱者男性が辛いのは、個人的に人間関係で満たされていないこともあるが、恋愛至上主義+強制的異性愛によるところも大きい。(適切な異性関係を十分に構築できない人間には価値がないかのような言説はある)弱者男性の本来の敵は女性でもフェミニズムでもなく、恋愛至上主義、強制的異性愛である。 むしろフェミニズムやクィアスタディーズから、弱者男性は多くを学べる。
①「私的な領域のことだから」「個人のことだから個人でなんとかしろ」と個人の問題として扱われることに抵抗し、公私の区別自体と、そこで「私的であること」の過小評価に対して徹底的に批判してきたのがフェミニズムだから。
それなのに、なぜか非モテ、インセルは女性やフェミニズムに対して敵対心を燃やしてしまう。