居るのはつらいよ
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p.40 外来担当、事務担当の「女の子たち(医療事務ガールズと呼ぼう)」。
p.52「オツボネ風看護師」
p.96 「仕事の9割が、まるで「お母さん」がやっているような素人仕事」
こういう表現にめっちゃ引っかかるんだけど......
お気楽に読んでもらうための修飾だってのはわかるけど。
「ケア」ってテーマに比して、あまりにライト、あまりに雑じゃね?
彼らは社会に「いる」のが難しい人たちなのだ。だから僕の仕事は「いる」のが難しい人と一緒に「いる」ことだった。(p.43)
何か「する」ことがあると、「いる」が可能になる。
言い換えると「「いられない」のは何も「することがない」からだ」となる。
「いる」ために「する」ことをつくるか。何も「する」がなくても「いる」を可能とするか。二択。
時間と空間を限定することはカウンセリングの基本。(p.47)
「いる」のがつらいのは僕だけじゃない。「いる」のがつらくって、いろいろな声が聞こえてしまう人たちが、ここに集まってきているのだ。デイケアって、そういう場所なのだ。(p.50)
深い話ではなく、浅い話をする。そうやって時間を過ごしていると、ちょっとずつ人間関係ができてくる。時間が大事なのだ(p.52)
(......)他人事じゃない。僕もまたセラピーのほうが、ケアの仕事よりカッコいいし、価値が高いと思っていたからだ。
ここだ。ここに僕は傷ついていた。
自分がしている素人仕事の社会的評価が頭にちらついてしまって、専門家の国から遠く離れたところへと流罪にあっている気がしてしまうのだ。(p.107)
「ここに傷つく」の「ここ」って?? というか、ここまで、この経験するまで、本当に「セラピーのほうがケアより偉い」とどこかで感じていたの?? 違うよね?
遊び について。「もっと端的に言おう。僕らは遊んでいた。/ 遊び。ここだ。ここに秘密がある」(p.151) だけど、じつは遊ぶことって誰にでもできることではない。遊べない人もいる。あるいは遊べないときがある。うつになるとゲームをするのも嫌になるし、不登校児はおもちゃに囲まれても手を伸ばすことができない。ハエバルくんもそうだった。彼は最初遊べなかった。心が逼迫しているとき、僕らは遊ぶぶことができなくなる。(p.152)
デイケアでは何も起きてないわけじゃない。実は細かくみると互いにケアをしあってる。また、ケアをするとケアをした自分が癒される。ということは「ケアされる」=「ケアする機会を与えている」=「癒される機会を与えている」=「ケアしている」という逆転性、あべこべになる。 デイケアはコミュニティだ。しかも、究極のコミュニティだ。というのも、それは「いる」ために「いる」ことを目指すコミュニティであり、コミュニティであるためにコミュニティであろうとするコミュ二ティだからだ。
デイケアにはあミッションがない。(p.220)
ケア→傷つけないこと。ニーズを満たすこと。依存。セラピー→傷に向き合うこと。ニーズを変更すること。自立。
(pp271-6)