君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ
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ここまで一切の邪気のない歌もないだろう。百人一首に収録された光孝天皇のこの一首からは、大好きなあの人への清らかな思いがストレートに伝わってくる。 「春」というのは古文の世界では1月から3月のこと。若菜とは体によく、それを食べると長寿になると信じられている春先の草のこと。七草粥の風習は現在でも残っているが、その七草、セリ、ナズナ、ゴギョウ.....といった植物のことを指す。「衣手」は袖のことで、「雪は降りつつ」の「つつ」は反復や継続を表す助詞なので英語で言うところのkeep on みたいな意味だろう。したがって歌の意は「君のために春の野に出て若菜をつんでいる私の衣の袖に雪が降りつづけています」という意味になる。 天皇である。好きな人がいる。その好きな人の健康、長寿を願って、若草をつむ。もうこの時点でこれ以上なくほっこりしませんか。あなたが愛しいとか好きだとかかわいいとか魅力的だとか。そうじゃなくて願ってるのは長寿ですよ。元気でいてほしいのです。相手は体の弱い人なのかもしれない。ただただ好きな人のために、その人のことを思って野に出る。天皇が。みなから長寿を願われるべきは天皇たるあなただろうに、その天皇から長寿を願われ、自ら若草をつんでもらってる人がいる。
下の句で「雪は降りつつ」なんです。これも逆、先に「雪」と出てきたらイメージはどう変わりますか。「雪が降り続ける中、わざわざ天皇が自ら出ていって若菜をつみ続けている」。確かにいいことやってるんですが、どこか恩着せがましい。アピールしてる感が出てきてしまう。けれども、言葉の順序としては逆なんです。春の野に出ていく。若菜をつむ。そんな私の袖に雪が降り続けている、なんです。たったこれだけでお仕着せがましさが全然なくなるんですよね。
「雪は降りつつ」はわかりますが、ではその雪は「いつから」降っていたのでしょう。雪が降る中を降ってるとわかって光孝天皇は若菜を摘みに野に出たんでしょうか。それとも野に出て若菜を詰んでいたら雪が降ってきたんでしょうか。
その「いつから」がわからないように詠んでいる。事実としては最初から降っていたのかもしれないし、途中から降ってきたのかもしれない。けれども、そんなことはどうでもいいというか、気にしてない感じなんです。自分の意識にありのまま詠んだら、春、野にいって、若菜つんで。袖に雪が降りつづいてることに、「ここで」気づく感じ。それくらい夢中な感じが伝わってきます。
そしてだからこその「つつ」が効いている。「そんな私の袖に雪が降ってきた」「降り始めた」んじゃないんです。「降り続いている」なんです。ということはおそらくどうも野に出たときにはもう既に雪が降っていたんだろうなとなる。早い時点で雪は降っていたのだけど、野に出て、若菜を摘む。その袖を見ると「雪が降り続いている」と気づく。その時になって、過去からの継続に気づくこの感じがこの歌を本当に素晴らしいものにしている。そう私は思います。moriteppei.icon240301