古への奈良の都の八重ざくら今日九重に匂ひぬるかな
https://gyazo.com/40047a91c16c3639947e8cfbee4016db
ある時、奈良から送られてきた八重桜。これを宮中で受け取る役になったのが伊勢大輔なのだが、その場で藤原道長から「歌を読め」と言われ、即興で読んだのがこの歌だ。 「九重」とは宮中のこと。「匂い」はにおいのことではなく見た目の形、さまのこと。したがって「古の奈良の都の八重桜ですが、今日は九重、宮中でとても美しく咲いていますね」といった意になる。百人一首の他の多くの歌と同じく、解釈上は特に難しいことはあまりないが、これまたいろいろ考えさせられる一首だ。 昔は奈良の宮中で咲き誇っていただろうに、今は奈良に都はない。そうなると諸行無常、いくら栄華を誇る人たちでもいつかは花と散る、この世からなくなってしまう。「古へ」を思い起こさせるということは「この今もいつかは古になる」という感慨を人に思い起こさせてしまう。今の「京」がいつ「古へ」の「奈良」になるかわからない、いや、いつかはそうなる日がやってきてしまうのだと。
けれども「八重」桜が「九重」に、つまり「宮中に/八重よりもさらに」というダブルミーニングが効いている。九重が宮中を意味すること自体はおそらく今後も変わらない。八重桜が八重桜であることも変わらない。ということは既にめでたい名前の「八重」桜がある限り、それよりもめでたい「九重」は安泰だということになる。
歌に詠まれているのは過去と今日。けれどもこの歌は、八重桜があるかぎり、九重という「今日」が続く。毎年続くというめでたい未来も読み込まれている。宮中に咲き誇る、そして八重桜。その眼前の景色とともに、過去未来現在という時間的な広がりを即興の三十一文字に読み込んでいるところが素晴らしい。moriteppei.icon240229