価値観が異なる人間とも付き合うのが政治
自分が長い間、本当には「政治をして」こなかったと反省的に振り返りつつある今日、私は「しょせん政治ですから」というドライな認識をあえて堅持し、友人がどのような政治的信条を持っているかによって、区別しないように心がけています。もちろん、あからさまな民族差別やヘイトスピーチをして平気な人間とは生涯、友人にはなることはないでしょうし、人間の様々ある属性のうちの一つや二つをとって、それでその人を単一のカテゴリーに押し込めることを常とするような人間への物言いは当然厳しくなります。アホな友人は愛おしいですが、あるレベルを超えて愚劣な者とは付き合えません。しかしそれを前提として、政治的なスタンスや価値観が異なっているからと言って親密な関係を作れないとはまったく思いません。なぜならば、私は政治的価値観を、どだい人間の持っている価値観の表層部分に過ぎないと考えているからです。ええ、しょせん政治なんですから。なぜリベラルは敗け続けるのか岡田憲治 (pp.164-165). Kindle 版. これを政治学の言葉で表現するのはひじょうにむずかしいのですが、およそ人間の心根、あるいは心の「水脈」というものは、政治的言語「だけ」では理解できないものです。政治においてはつねに何かを決断し、限られた選択肢の中から何かを選ばなければいけないわけですから、その選択が自分と違うからといって、その人と自分との間に大きな違いがあるとは限りません。言ってみれば、政治的価値観、政治的選択というのは、心という大きな氷山の一角に過ぎないと思うのです。なぜリベラルは敗け続けるのか岡田憲治 (p.165). Kindle 版. なぜリベラルは敗け続けるのか岡田憲治 (p.165). Kindle 版.