世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞなくなる
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そんなビッグネームがどんな歌を詠んでいるのかと思ったら、のっけから「世の中よ道こそなけれ」である。「世の中なあ。道なんかねえ」。「こそ」は強調の助詞で係り結びで最後は「なけれ」と已然形になる。道というのは単純な通り道という意味ではなく、まさに英語のwayと同じ。方法とか「なんとかなるやり方」といった意味だろう。和歌を鑑賞していると「ロックだなあ」と思う瞬間がいくつもあるのだが、いきなりno wayと来るもんだからしびれてしまう。細かいけれど「世の中に」ではなく「世の中よ」なのもいい。
世の中とは人の世のことだろう。とりあえずそう解釈してみる。人の世に道がないのだから、その外に「道」を探そうとする。実際、「道」は、ある。あるから「思ひ入る」、すなわち深く思うとともに「山の奥」に入っていく。のだが、その道なき「道」=「山の奥」に入っていく、つまり隠棲しても、自然界では鹿が鳴いている。鹿は他の鹿を慕って鳴くとされているので、自然界にいても悩みや憂いはなくならない、山奥に入っても物思いは決して尽きることがないということになる。
どこにも「道」なんてない、道の外にも「道」はない。だからある意味、絶望ではある。けれども、その絶望が絶望で終わらない。どこか、あはは、うふふと笑ってしまうような余裕を感じるというか、どこにいっても「道」なんてない世の中を、シンプルにおもしろがっている余裕がこの歌からは感じられるのは、鹿の鳴き声から、なんとも言えない虚無ったあの鹿の表情が連想されるからかもしれない。
道がないのは自分だけではない。人間全員、道がない。ところがそれどころか人間だけでなく鹿にも道がないかのようにまで言ってしまうと「おれだけじゃないんだなあ」とどこかホッとしてしまうというか、自分が悪いわけではないという気持ちになる。自分の物思いもここでは鹿の鳴き声と等価になる。等価になれば複雑でエンドレスな「思い入る」も獣のシンプルな鳴き声と同じ。そこに一瞬、思考が止まる安心安寧もある。20240505moriteppei.icon