ナミビアの砂漠
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途中何度も再生止めた。画面の中に映ってる「カナ」があまりにも自分すぎるのだが、それは自分が恐怖と嫌悪を抱く「他者」の姿そのものだったから。私には私がわからない。誰にとってもその人自身がわからない。その2つはいずれも真だが、並べられると腹が立つ。
耐えられなくなり、普段、そうしたことはほぼまったく行わないのだが、思わずタイトルで検索してしまう。SNS上の他の人の感想やレビュー、Webにあった監督のインタビュー。その誰もが「カナ」のことをまったく理解していないことだけがわかった。
理解しなくてもその対象について素晴らしい映画を撮れるし、楽しんで鑑賞できてしまう。その構造自体に絶望させられるし、絶望した人にだけ見える出口に気付かせてくれる。そんな作品だった。その出口は別の監獄への入口でしかないのだが。(「理解する」ことがいいことだなんて誰が決めた)
「ホンダ」や「ハヤシ」と「カナ」は根本から違う。そう思っている人たちが、自分は「カナ」だと思いこむ。そうした鑑賞を助長しかねない要素が本作には無数に存在する。それは本来非常にイライラする「べき」ことでもある。すべての理解と誤解を同時に産出する構造そのものに対するヘイトが、噴き出てこなければ嘘だ。
けれども、不平等なこの社会でそれは「自分の感情を爆発させるような、男に都合の悪い特定の女性をないものとする構造的沈黙化の言説」と機能上は等価であり区別がつかない。本人たちにも区別がついていない。だから「メンヘラ女の暴発。これのどこがいいの?」という言葉。あとは作品の細かい瑕疵をあげていくだけでいい。ここで言葉を終わらせればいいのに、「こうした言説とこれを否定する言説、どちらもコインの表と裏でしかない」。そのことにも既に気づいてしまっている自分は、ついこんなことを書いてしまう。
人が自分にちょうどよい解像度で見たときの景色、そこに浮かびあがるグリッドが「正義」という理解で、人はみなそれを他者に押し付けて生きているのだが、格子を握りしめ「私をここに閉じ込めるな」と叫ぶ。その様は他者から見たらまるで滑稽な演技でしかないだろう。