セーファースペースよりもサードプレイス
サードプレイスの集団の「一員」になれるか否かは、ある特定の主題に「何の関心もない」人びとーーつまり自分と反りが合わない人びとーーと折り合いをつけられるかどうかにかかっている。レイ・オルデンバーグ サードプレイスp.29 確かに一定程度のルールや最低限は必要だが、それ以上は意見の一致を見ることのほうが少ない。ほとんどは意見が一致しているのに一部で意見が合わないからといって、そのコミュニティ運営を責めることは生産的ではないし(批判や意見はもちろんあっていい)、現実問題すべてで一致しているような人とだけのコミュニティは社会的な機能として非常に限定的なものにならざるを得ない。
極端まで推し進めていくとセーファースペースは「他者と出会えない」空間になってしまう。楽しくないし自分の声を他人から聞く状態に常になってしまうため、逆に同一化圧力も高く、また気に入らない相手がいた場合に「あいつはルールをおかしてる」「あいつがいるとセーファーじゃない」という形で気に入らない人に難癖をつけてキックすることができてしまう。石川優実コミュニティとかCRACだとか。 ここはセーフなスペースなのだからここで行われている言動はセーフである。それなのにセーフでないと言うお前がセーフを脅かす存在であり、追い出されるべき。
ここはセーフなスペースであり、お前はそれに違反している。なあみんな? だからお前は追い出されるべき。
みたいな話になっていきがち。「家族なんだから愛し合ってるはずだ。安全な場所だ」という思い込みとかと似たところがある。
対してサードプレイスでは、気に入らない相手とも一定程度付き合わなくてはいけない。拒絶と交流の間に「反りが合わないけれども最低限のやり取りはする」のようなあわいをつくることができるし、そのあわいを作る方法も学ぶことができる。自分と合わないもの、好きではないものと「つきあう」方法を学ぶこと、学べる場は非常に重要。