ジェンダーとサードプレイス
(...)サードプレイスを中性化して論じると、それを取り巻く現実の大部分を無視することになり、ある重要な事実が見えにくくなる。すなわち、最良のサードプレイスは男性だけか女性だけのたまり場であり、男女共有のそれではないということだ。サードプレイスの愉しみは、おもに同性とのつきあいの愉しみであり、その影響を受けて、男女共有の世界が育まれるよりも男女別々の世界が維持されてきた。/ 性別分離はサードプレイスが生まれた主要因であり、今なおサードプレイスがもたらす魅力と恩恵の多くの根拠になっている。レイ・オルデンバーグサードプレイスp.366 最良のサードプレイスは単一ジェンダーなのか、サードプレイス自体が単一ジェンダーなのかわかりにくい。つまり、単一ジェンダーではないサードプレイスはありうるのか?
「ほとんど」ということは例外があることをオルデンバーグも認めているっぽい。
サードプレイスでの男女の統合には限界がある。明らかに、ある一つの施設に男女両方が入るのを許可することは、いや歓迎することでさえ、およそ性的統合に等しいとはいえない。諸事情によって女性を入れざるをえなくなった男性のたまり場の多くは、依然として男性のたまり場そのものだ。レイ・オルデンバーグ サードプレイスpp.400,401 単に許可することは「性別分離してない」と言うことはできない。
すなわちサードプレイスは、男女を分ける働きをするのであって、男女を対等で区別のない関係へと融合させるのではない。「とびきり居心地のいい場所」のこの特徴をさらに検討すると、とうていそうとしか考えられないと分かるはずだ。性的アイデンティティーは決して忘れ去られることがなく、同性の交友関係か男女混合の交友関係のどちらかが、定期的に社交的な集いを開催するどの施設でも幅をきかすだろう。男女が釣り合っていて、まんべなく入り交じり、異性が一番の関心事であるところでは、エロティックな興味が優位に立つものだ。そのような場所は、それなりに魅惑的かもしれないが、サードプレイスではない。レイ・オルデンバーグ サードプレイスp.409 バイナリージェンダーはそれでいいとして(仮に)、ではクィアはどうするのかとか、色々思ったんだけど、クィアの人たちにとってのサードプレイスは同じ属性の人たちとの場所なのでは?と。 サードプレイスの伝統が男性優位であることは理解に難くない。(...)子どもから目が離せないので、女性の集いには、男性のようなに羽目をはずす余裕がない。たえず「仕事中」だから、女性たちは酒を飲んだり、騒いだり、家庭環境とその債務から遠かったりすることがずっと少ない。レイ・オルデンバーグ サードプレイスp.370 女性はサードプレイスに参加しにくかった。それは子育てが主に女性が担っているからであり、また金銭的に女性には負担がしづらいためだという。
それはいいとして、これらのことから見えてくるのが、どうもオルデンバーグはそもそもサードプレイスを「男性のそれ」を中心にモデル化している=元からかなりのジェンダーバイアスがあるということだろう。男性のサードプレイスをモデルにしてサードプレイス論を組み立てれば、そりゃ女性のそれはそこからの逸脱になっちゃうでしょう。