しない自分を肯定するためにしている他者を否定する
Xでは今回の震災について「本人は善意でやっているつもりだが単なる独りよがりで、実は被災者に迷惑をかけている」(だからボランティアに行く人は全て愚かな厄介者)みたいな話が大人気らしいんだけども、こういう話、意識してないにしても「やらない自分の罪悪感」を慰撫してくれるストーリーとして飛びついている人もいるんではないかという気持ち紙魚エビ🏳️⚧️†🏳️🌈トランス差別反対: - Mastodon まずそもそも倫理的な判断は「それをすべき」という制約を、特定の個人にではなく広く一般にもたらす。倫理には強制力がある。それをすることが倫理的ということは、しないことは「倫理的ではない」ということになる。
たとえば、肉食について「するべきではない」ということが倫理的に結論されてしまえば、それは「するべきではない」ことになる。している人は「しちゃいけないことをしている」ことになる。要するに、その人はバカか、善意がないか、どちらかだと言ってることになる。
「私はデモに行くけど」「私は肉を食べないけど」。いくら「私は」をつけても、結局それはその行いが今そうしたコストや労力を払うことが、しないことよりも倫理的であるという主張になってしまうため、言われたほうは「デモに行かない自分はバカと言われているのか」「それでも肉食を続ける自分は悪だと言われているのか」となってしまう。
なので倫理的な主張をされたとき
①否定:それが倫理的であるという主張が間違っていることを証明する
②個人に矮小化:それは倫理的な、つまり普遍的な当為の主張なのではなく、その人個人のライフスタイルや主張という枠に矮小化する
否定
相手の主張を真っ向から否定する。「倫理的ではない」つまり「倫理的に効果が見込めない」もしくは「逆に倫理的に否定される」。
矮小化
たとえばヴィーガンは「自分の勝手な価値観を押し付けてくる」というように表象される。あの人たちは「それがやりたい」「そういう人たち」である、というように問題がフレーミングされる。「別に肉を食べないのは勝手だけどこっちには押し付けてくんなよな」とか「デモに行くのは好きにしたらいいけど」「ボランティア行きたいなら行けばいいけど」押し付けるよな、みたいな。 でも、デモに行くのはどうしても今看過できない政治問題があり、それを解決する手段が相当限られているからなので、それでも「デモに行かない」人は「問題を解決しようとしない邪悪な人」のようになってしまう。
そのため「デモに行く人はヤバい人」「ヴィーガンは狂ってるやつら」のように言いたがる。