あらざらむ此の世のほかの思い出に今一たびの逢うこともがな
https://gyazo.com/1d6dae482d6b38658457c868ed9ccfa5
和泉式部は小式部内侍の母。とにかく和歌の才能がズバ抜けており、またその濃ゆーい恋愛遍歴とそれを記した和泉式部日記で特に知られる。とにかく恋愛脳。どれくらいの恋愛脳かというと、いまわの際、死ぬその瞬間に詠んだ歌が「逢いたい」くらいのJ-POP感だ。 これも解説不要な「まんまそのまま」な歌だろう。「あらざらむ」は「もうすぐなくなる」つまり、詠み手は死にかけている。此の世を去って、では「ほか」にどこに行くか。「あの世」だろう。その「あの世」に持っていく「思ひ出」にもう一度逢いたい!の意。ここでの「逢いたい」は「男女」のそれなので、思いっきり「寝たい」みたいな話でもある。昔、松田聖子は「生まれ変わったら一緒になろうね……」と言って、郷ひろみとの涙の破局会見をしたのだが、和泉式部はまさにその時の松田聖子である。 おそらくは結構人気のある和歌だと思う。それくらいの恋をした、それくらい人を好きになった、あなたに会えて愛する素晴らしさを知った、みたいな。そういう内容を歌ってると解釈されるのだろうけれど、自分の感慨は完全に逆方向にある。これから死ぬ。いまわの際にあっても性に執着する、そのおそろしくしつこい煩悩、我執のすさまじさ、醜さ、情けなさばかりが染みてきてしまうのである。
仏教全盛の平安時代だろう。いい年こいた大人だろう。あなた、これまでたくさん恋してきたじゃないですか。もういいじゃないですか。よくないのか。そこは少しは落ち着いて、煩悩の一つでも捨て去ったらどないですか。でも、それは「アタマ」での理解の話。人間そう物分かりよくは悟れない。死の淵にあってもまだ生に執着する。そのあさましさを、でも、恥ずかしげもなくストレートに表現した。和歌と恋に命を捧げた女の、死の淵で放つ生の炎が胸を打つ。 とまあ、感動したあとで今度は下世話な勘繰りである。で、その「今一たび」逢いたいと願っている相手とは一体誰のことなのか。
まず、夫の和泉国守橘道貞(たちばなのみちさだ)。でも、この人とはよくわからないが破局、離婚したらしい。となると夫ではないだろう。次に夫以外の恋人として為尊親王(ためたかしんのう)が浮かぶ。でも、この人は和泉式部よりも先に亡くなったらしい。ということはもう一度この世で逢いたいではなく「死んだらやっと逢えるね❤️」になりそうだからこれも違う。為尊親王の弟、敦道親王(あつみちしんのう)か。って、知らない人はどういうことだ?と思ってしかるべきだが、和泉式部、兄とも弟ともどちらともデキてしまっていたのである。上手いのは歌だけじゃない。いや、歌が上手いからそんなにモテるのか? 和泉式部日記、めっちゃ読みたくなってしまった......。 てか、仏教だろう。解脱が目標だろう。そうでなければ浄土か。浄土で死んでからあえばええやん。こんなに業の深い人間が浄土になんかいけるのか?
いや、元から「成仏」を諦めてる気がする。恋してしまった。好きになってしまったら引き返せない。この人はだから「あらざらむこの世のほか」というぼかした言い方をしているが、どんな輪廻をすることになるかわからない、そこでの楽しいとは限らない、もっと言えば辛いだろう生の思い出に「もう一度逢いたい」と言っているのである。
恋バカは死んでも治らない。こういう人が私は嫌いじゃない。moriteppei.icon20240209