政治の商品化
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moriteppei.icon 消費は政治だってのはわかるし、聞こえはいいんだけど、逆に最近「政治は消費だ」という側面が強くなってきており、そこに居心地の悪さを感じてしまう。「私はこれを買う」「このように買う」が政治であり政治力なら、そのような購買行動ができる人、選べる人が、「政治的な正しさ」を購入できる余裕を顕示することで、他者からの卓越を主張する側面が強くなっている。そしてそうした振る舞いがSNSで伝播することで「場所や環境にかかわらず」正しいとされてしまうし、「選べない人」が容易に忘れ去られてしまう。そしてさらに「消費は政治」から「政治は消費」の逆転は、政治の商品化にまで至る。「この本屋さんを買って応援」「このラーメン屋さんで食べて応援」と言えば聞こえはいいが、本来であれば差異のない商品や購買行動に差異を生み出す装置として、つまりは新しい商品を産出しつづける装置として、そこでは「政治」が機能してしまっている。 「PするなんてXはもう見ない/聞かない/買わない」。不買運動や選択的な購買行動には一定の政治的効果はあるんだろうし、大事なことだとは思うし、自分もそうした選択を意識してすることはある(温室効果ガスや動物倫理の観点から肉食をやめて1ヶ月が経つ)。 が、商品やサービスの購買行動が政治的行為だとみなされていく中で、「政治の商品化」が進むことに疑問も持っている。不買=反対運動、購入=買って応援、支援、エンパワメント。すべてが資本主義の金銭として取り扱われ、政治行動が「商品」になっていく違和感。 利便性や効率、サービスそのものの質で言えば圧倒的なAmazonではなく、「エシカルな」個人商店で何かを購入する。政治的価値という差異があるからだが、機能上は同じサービスや商品を「異なるもの」とすることで欲望を喚起するのが、まさに無限に「商品」を生み出す資本主義のロジック、原理にもなっている。そこに対する反省がどんどん見えなくなっていってしまうっていう。 写真は石川優実らが運営しているフェミカフェで提供されているケーキ。このケーキと機能的にはほぼ等価なケーキはこの社会に無数にあるだろうが、ここに一本「FUCK THE 家父長制」のつまようじフラッグを立てるだけで、そこに差異が生まれ、欲望が喚起され、金銭で交換がなされる「商品」が新しく生まれる。ユーザーの主観的には性差別への反対や、女性蔑視的な社会に抵抗する者たちのエンパワメントになっているのだが(そのことを否定はしない)、それが客観構造的には資本主義の商品増殖のロジックとぴったり重なりあってしまう。 私は石川らのことは嫌いだし(Twitterで一悶着あったのでw)、現在の彼女の活動をまるっきり評価していないが、でもそういうことを一切抜きにして、このケーキが醜悪に見えてしまう視点があるんだよね。大変おいしそうなチーズケーキなんだけれども。それは上で書いた通り、一時期の思想的潮流にはよくあった「差異が生み出す商品と資本主義」という観点に対する反省的な視点が一切見られないからだと思う。
何もかもが消費と資本主義に結びついてしまう社会の中で、できる抵抗を考える。
たとえば、できるだけでかいスーパーやコンビニに行かない。チェーン店で珈琲を飲まず、フェアトレードで個人で豆を売る人から買う。デモに行って政治的な立場を明らかにしているアーティストの芸術を楽しむ。手作りのzineを買ってみる。スマホを置いて公園で読書してみる。
当然、いつも実践することはできない。特にお金と時間の余裕がなくなればなくなるほど難しくなる。貧しくなればなるほど、社会を変えるための行動も起こしにくくなるという悪循環がある。
だからこそ、変えられる範囲で、行動を変えていきたい。