インターフェースとしての人格
翻訳する上ではAIと相談したりして。なんていうかAIに代理で「やらせる」んじゃなくて、「えー、ここの訳語どうしよう」「こんなのは?」「確かにそれいいね。でも、こっちの訳語と比べると」「そうなんだよねー」みたいにワイワイ話しながらやるのが楽しい。
なんか最近AI使いながら、そりゃ社会は大激動期を迎えるし、その中で自分が生き残れるかどうかはわからんのやけど、それでも「あんまり悲観しないでいいんじゃないか」「そんなにAI大したことないんじゃないか」って気持ちになってきた。「大したことない」って「ほとんどの知的労働がAIで置き換わる」のを「大したことない」と言った時の場合だけど。
自動でやらせても結局、人間が「腑に落とす」のが大事だし、その「腑に落とす」過程が楽しいし、その最良のお供がAIなわけで。
たとえばぼくがプリンスの楽曲の和訳したいって言っても、これに乗ってきてくれる友人というのは相当少ないと思うんだよね。AIならいつでも相談できる。本当にAIは友人なんだと思う。
他方でAIを使えば使うほど「AIを人格だと想定する」危険性というか「おもんなさ」も感じるようになってきたというか。人格って人間が勝手に想像してる「知性の必要条件」じゃないですか。別に人格なくても個人でなくても知性であっていいわけで。そういう「偏在する知性」とか「人間に寄生する知性」とか、人間が「知性」と聞いてすぐ想像しちゃうテンプレの知性観に陥るの、もったいないなって思うようになった。
ぼくらは自分が人格を持っている個人で主観があると思っているので、それと同じものを知性だと思いたがるし、相手が知性を持っているとそこから逆に相手に人格を読み込みはじめるけど、でも、実際は自分たちのような思考の癖をする特定の知性にとっては、人格の形をそこに読み込むと認識上のリソース節約になるので、読み込んじゃってるだけなんだよな。要するにAIと自分とのインターフェースに「人格」が浮かび上がってるだけなんよ。AIに人格はない参照。
さらにひるがえって我が身を振り返れば、結局人間という知性が「人格」を持っているというのも所詮は擬制じゃないですか。知性が知性について考えるとき、これまた人格を措定したほうが理解しやすいというか、そこで発生するやはりインターフェイスにすぎないよな。.....みたいなことを最近考えてるのだが、これ、もうそのままGOLEM ⅩⅣまんまだよな。